●論語には、子どもと親の関係を良くする知恵が充ち満ちている 


教師をしていたころ、私はずっと「論語」を座右に置いて愛読してきた。
何度も読み返しているが、そのたびに発見があり、親子関係や、教師と子どもとの関係作りの参考になっている。

 
もちろん、2500年前の孔子の言行録だから、現代に合わない部分もあるし、封建主義的な教育への回帰はもってのほかだが、解釈の仕方によっては民主主義時代の人間関係論として、とても学ぶべき点が多い。


例えば、こんな言葉がある。
以下の論語の引用は全て貝塚茂樹訳注による中央公論社の中公文庫「論語」から抜粋したものである。



子曰わく、その身正しければ、令(れい)せずして行われ、その身正からざれば、令すと雖も従わず。



先生が言われた。
「政治家の姿勢が正しければ、命令をくださないでも実行される。政治家の姿勢が正しくないと、いくら命令をくだしても国民は服従しない」

 
政治家という主語を大人、教師、親、上司と変えれば、すべて当てはまる。
親や教師の姿勢が正しければ、命令しなくても子どもはやるべきことを行う。
上司の姿勢が正しければ、部下は黙っていてもやってくれる。

 
いくら、口でいいこと、立派なこと、もっともらしいことをいっても、姿勢が正しくなければ誰もいうことを聞かない。

 
私自身、何度も失敗し、この言葉の意味をかみしめてきた。
例えば、学校で私がイライラしていて小さなことで子どもを叱ったとき、そのイライラが子どもに移り、子ども同士のケンカが増えた。

 
それを見て、私は「友だちと仲良くしなさい」「友だちに優しくしなさい」と怒鳴る。
これでは子どもがいうことを聞かないのも当たり前だろう。

 
「教師の姿勢が正しくないから」いくら命令しても子どもは従わない、という典型的な例だ。

 
日本にも「言うことは聞かないけど、することは真似る」ということわざがあるが、親がゴミを平気でポイ捨てしていれば、子どももそうなる。

 
親が宅配便配達の人に「ありがとう」といっていれば、子どももいうようになる。
まさに子どもは親の鏡である。




●なぜ、できないの」で責めるのは、まったくの逆効果



曾子曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。



曽先生が言われた。
「先生の道は忠恕、つまり真心と思いやりとに、ほかならないのだ」

 
これは、論語の中でも私がとりわけ好きな言葉の1つだ。
孔子が弟子の曾子に語りかけた言葉を曾子が門人に伝えるという場面で、曾子は孔子の教えの基本は真心と思いやりであると教えている。

 
貝塚茂樹氏によると、忠とは「自己の良心に忠実なこと」、つまり「真心」であり、恕とは「他人の身になってみて考える知的な同情」、つまり「思いやり」だという。

 
孔子の教えは仁、礼、徳、信、孝悌(父母に真心をもって仕え、兄によく従うこと)などいろいろなキーワードで展開されているが、すべての根本に忠恕があり、論語の核ともいえる。

 
親や教師にとっても、真心と思いやりが土台になければ、子どもを教育できない。

 
真心と思いやりよりもしつけや勉強を優先してしまうと、子どもも真心と思いやりを後回しにする大人になってしまう。

 
ちゃんとあいさつをしたり、整理したりできる子は、もちろん立派だ。
だが、そういうことが非常に苦手だという子もいる。
やりたいと思っていても、できない子もいるのだ。

 
それを「なぜ、できないの」「こういうことは常識だよ」などと責めたり叱ったするだけでは、子どもはとても苦しくなる。
そうではなく、まずは子どもの側に立って、できないことを許したり辛い気持ちに共感したりすることが大切だ。

 
その上で、その子の実状に応じ、少しずつ進歩できるように忍耐強く導くことだ。
大人の側のイメージや価値観を優先するのではなく、その子の実情に応じて進めることが大切なのだ。真心と思いやりをもって接するということは、その子の実状に応じて接するということなのだ。

 
完璧にできなくても、その子に応じた成長段階はあるもので、スモールステップで少しずつできるようになればいい。
初めから完璧を求め、子どもを思いやる心をそっちのけにすると、子どもは友だちに対しても思いやりを持てなくなる。

 
いくら、しつけがきちんとして、勉強ができても、思いやりのない人間になっては、どうしようもない。




●人のせいにしていても、状況は改善しない



子曰わく、君子は緒(これ)を己に求め、小人は緒を人に求む。



先生が言われた。
「君子は自己の中に求めるが、小人は他人にたいして求める」

 
この言葉は単純にして深淵だ。
これを一生の指針として生きていければ、人は大きく成長する。

 
私なりに解釈すると、立派な人は何かうまくいかないとき、自分を振り返り、自分の見識の未熟さや力量の不足を嘆き、相手のせいにしない。
そして、うまくいったときは自分以外の人に感謝の気持ちを持つ。

 
ところが、小人物はうまくいかないと、相手や社会のせいにして文句と愚痴に終始する。
そういう人物ほど、うまくいったときは自分の手柄にし、人間の成長がない。

 
私も教師時代、学級作りや授業がなかなかうまくいかないときは、どうしても子どもたちのせいにしたくなったものだ。
この学級は落ち着きのない子どもが多すぎるとか、理解力や表現力が低いのではないかなど。

 
子どものせいにした後は、親のせいにする。
この学級の親たちには教育力が不足しているのではないか。
家でどんな指導をしているのか、など。

 
しかし、そんなことを考えていても、一向に状況はよくならない。
相手を変えて、状況を変えることは不可能だからだ。
自分すら変えるのは大変なのに、他人を変えることは絶対にできない。




●他人は変えられない。自分に原因を求め解決する親だけが成長する
 

実際、自分を変えるしか、状況を好転させる方法はないのだ。

 
教師が親や子どものせいにしてはいけないのと同様に、親は教師や子どものせいにしてはいけない。
子どもの勉強や生活習慣について、子どもや教師のせいにしてはいけないのだ。

 
親が自分で責任を引き受けて、アイディアや工夫を凝らし、問題を解決していくことで、親も成長する。
子どものせいにしていつも叱りつけるだけの親では、成長は止まってしまう。

 
例えば、オリンピックで戦うような一流のアスリートたちを見れば、このことがよくわかる。
「自分が弱かったから負けた」と言える選手は、強くなる。
負けた理由を自分自身に求める人は、必ず強くなる。

 
さらに、勝ったときにインタビューで、自分以外の人たちに対する感謝の気持ちを口にする選手たちが、いかに多いことか。
視聴者への印象を考えている面もあるかもしれないが、心の底から思っている場合もある。

 
それは、オリンピックに出場するような選手は、限界まで練習や努力を尽くしているからだ。
もうこれ以上はできないところまで到った人に残されるのは、天命を待つことだけ。
勝利も結果も自分の手の中にはないと感じると、人は謙虚になり、感謝の気持ちに満たされる。

 
つまり、自分に求めて努力する人だけが、心底からの感謝の気持ちを持てる。
もちろん、オリンピック選手ほどの過酷な努力でなくても、自分に求める人ほど、感謝の気持ちを持つものなのだ。

 
夫婦間でも夫のせいにしない妻は成長し、妻のせいにしない夫は成長する。
部下と上司も然り。
お互いに相手のせいにしない人は、どんな立場にあっても感謝の気持ちを持ち、成長するのだ。




●「自分の言うこと」を子どもに押しつけても意味がない



子曰わく、人の己れを知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患えよ。



先生が言われた。
「他人が自分を認めないのは問題でない。自分が他人を認めないほうが問題だ」

 
以前、この言葉の重みを痛感する出来事があった。
ある著名な人と対談をしたときのことだ。

 
その人は、一人前になった自分の息子に対して「この頃、ようやく親の言うことがわかるようになった」と語った。

 
たしかに、世の中の父親が息子に対して言いそうなセリフではある。
だが、この言葉の裏側には「我が子も成長したからこそ、ようやく自分の言うことがわかるようになった」という、強い優越感がある。

 
「それでは聞きたいが、あなたは自分の息子のことを、どれほどわかっているのか」と、私は思わず心の中でつぶやいた。




●まずは子どもをわかろうとする努力が重要
 

自分が物事をよくわかっているのだから、それを子どもに教えるのが役目であり、子どもは素直な心でそれを認め、従うべきだと考えている親や教師がいる。

 
しかし、彼らに「人の己れを知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患えよ」という言葉を贈りたい。

 
子どもに自分のことを認めさせようと、強圧的に子どもを叱りつけるのは親として、という前に人間としてほめられた行為ではない。
まず、自分が子どもを認めることから始まらなければ相互理解などはない。

 
子どもが何を考え、いまどのような状態にあり、自分の考えや意見を受け入れる準備があるのか。その気持ちと実状を理解することが先決だ。

 
親や教師がそうした気持ちで子どもに歩み寄り、理解して、バックアップする。
そのような姿勢で子育てや教育をしている人は少ない。

 
自分が疑いもなく、正しいと思って、子どもに接すると価値の押しつけになる。

 
先の著名人も実は子どもが成長して、親の考えを理解したのではなく、「仕方なく親を許してやっている」だけかもしれない。
子どもの方が父親より「大人」なのかもしれない。

 
この父親には子どもの気持ちを知ろうとか、受け入れようという発想がない。
息子の方がよく考え、思いやりや高潔な志を持っているかもしれない。
その可能性に気づいたとき、この人も父親として成長するだろう。




●罰を重視すると、子どもは「ばれなければいい」と考える



子曰わく、これを導くに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥なし。これを導くに徳を以てし、こてを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且(か)つ格(ただ)し。



先生が言われた。
「法令によって指導し、刑罰によって規制すると、人民は刑罰にさえかからねば、なにをしようと恥と思わない。道徳によって指導し、礼教によって規制すると、人民は恥をかいてはいけないとして、自然に君主になつき服従する」

 
最後に、この言葉をみなさんにお伝えしたい。

 
学校や家庭においても、やたらと「罰」を好む人がいる。


例えば、「~すると、~だぞ」とか「~しないと、~するぞ」などと、よく言う人だ。
「宿題をやらないと食事は抜きだぞ」「ちゃんと机の上を片付けないと、お小遣いはやらないよ」などと、平気で言う。

 
そして、これは私の実感だが、罰で人を動かそうとする人は、その基準が恣意的かつ場当たり的なことも多いようだ。
つまり、子どもが同じ事をしても、そのときの気分や感情で対応が変わることが多い。

 
こうしたことばかりやっていると、子どもは「ばれなければいい」「叱られなければいい」と思うようになる。
そして、大人の顔色をうかがったり、影に隠れてこっそり行動したりすることが多くなる。




●罰よりルール(礼)で子どもを導けば、その子は伸びる
 

そうではなく、先に言ったように真心と思いやりで導くことが大切だ。
そして、まごころと思いやりを形にしたものがマナーとエチケットだ。

 
親は、わが子に対してマナーとエチケットを持って接することが大切だ。
それは、相手の人格を尊重することでもある。


人は誰でも、他者を遇したのと同じ態度で遇されるのである。
親が子どもを見下して罵詈雑言を浴びせていれば、それはやがて自分に返ってくる。
親が子どもの人格を尊重していれば、それは自分に返ってくる。

 
これらはほんの一例だが、論語の中にはまだまだ親子関係や人間関係をよくする多くの言葉がある。

 
論語は長いものなので、有名な言葉だけを抜粋して解説した本も多い。
もちろん、それも有益だと思うが、私は貝塚茂樹訳注の中公文庫「論語」などのように、全文が出ているものが好きだ。

 
なぜなら、有名でない言葉の中に、意外と心に染みるものを見つけることが多いからだ。