時代と社会の変化によって、人に求められる能力は当然ながら変わってくる。
それまで必要だった能力が不要になることもある。
逆に、まったく新しい能力が必要になってくることもある。

 
賢い経営者は衰退する事業に大きな投資をしない。
同様に、賢い個人は不要になる能力を得ることに時間とエネルギーを投資すべきではない。
過去の遺物のような能力にこだわっていると、時代が求める能力を身につけることができなくなる。


能力の一部である学力もまた、時代と共に変わってくる。
子どもに対する教育も、これからの時代に必要な能力は何かを予想して、時代に合ったものに変えていかなければならない。

 
例えば、漢字の書き順だ。
手書きが重視された時代は漢字の書き順、とめ、はね、はらいなどは大切なポイントだった。
だが、これからの時代では必要度は確実に下がる。

 
手書き文字は日本の大切な文化ではあるが、現実的には社会人の多くはデジタルによって文章を書いている。
手書きが必要になるのはメモのときくらいなので、漢字の書き順やとめ、はね、はらいにこだわる必要がなくなってきている。


旧来の教育をたっぷり受けて来た世代はともかく、若い世代になればなるほど、この傾向は強くなる。

 
書き順どころか、漢字を書く能力すら必要度が下がっているのが現実だ。
パソコンが変換してくれるので、選ぶ能力さえあれば書けるのだから。
わたし自身、パソコンで文書を書くようになってから、漢字を書く能力はかなり低下した。




●デジタルスキルも「学力」の一つ
 

算数でも、20年前までは筆算などの基礎的な計算力をつけることにほとんどの時間をかけていた。


しかし、電卓の普及によって、筆算よりも文章問題を読んで作図したり立式したりする勉強に時間をかけるべきではないかという意見が出てきた。
実際、教科書でも電卓を使って問題を解く方法を扱うようになった。

 
最近の脳科学の研究で、計算力が脳を鍛えるのに役立つということが言われ、筆算も見直されている。
わたしも、基礎的な計算に習熟することは、算数の力をつけるために絶対必要な大前提だと考えている。

 
しかし、これからの時代は、それだけでは足りない。
問題を読んで作図したり、立式したりする勉強にも、もっと時間をかけるべきだと思う。

 
ところで、以前、どこかのサイトで、ある中年の男性ビジネスマンがITベンチャーの若者と打ち合わせしたときの話を読んだことがある。
中年男性は、若者の鉛筆の持ち方がひどいことにまず驚き、さらに漢字の書き順に間違いが多いことに気づいたという。

 
中年男性は「こんなやつと仕事して大丈夫だろうか」と心の中で心配になったが、同時に「相手にとって、自分も同じような心配の対象なのかもしれない」と思い直したという。

 
つまり、パソコンやネットの苦手な自分は、若者には「このおやじはブログも作れないのか。え~! テキスト文書をPDFにすることもできないのか」とあきれられているかもしれないというのだ。
これは示唆に富む話である。

 
今や小学生でも自分でブログを作る。
子どものころからデジタルに接している世代を「デジタルネイティブ」と呼ぶらしいが、こうしたデジタルスキルは学力とはいえないのか。

 
現在、こうした能力は「学力」と呼ばれていないが、その理由は、学問大系に則していないことと、学校や塾のテスト、大学入試や就職試験で行われないからである。

 
就職試験で行うところも、あるにはあるが少数派だ。
もし、学校や塾のテスト、大学入試や就職試験などで行われるようになれば、「学力」に一歩近づくことだろう。

 
これから情報産業はますます発達するだろう。
仕事の現場ではITの活用は既に当たり前になっている。
そうであるならば、デジタルスキルは能力であり、広い意味での学力と考えてもおかしくはない。




●今の親たちが軽視しているが、実はとても大切な能力とは?
 

ところで、これから必要になる能力はいろいろあるだろうが、わたしはここで強調したいものが一つある。
それは本当に大切なものなのだが、現在、多くの親たちから軽視されている。
だから、ここでとくに強調しておきたい。

 
それを考えるのに、いいヒントを与えてくれる本がある。
それは、『超「超」整理法』(野口悠紀雄著)だ。


この中で、野口悠紀雄氏は「昔は読み書きそろばんが大事だったが、これからは読み書き検索力が必要になる」と書いている。

 
仕事のあらゆる場面で的確な情報が必要だ。
マーケティングにも、各種調査にも、新しい企画を作るにも、それを企画書にまとめるにも、検索力は必須だ。
仕事の場面だけでなく、個人の生活においても同じだ。

 
では、わたしが言う本当に大切な能力とは検索力なのか? 
ところが、違うのである。




●検索力より問題設定力
 

確かに検索力は必須だ。
しかし、検索力そのものは大した能力ではないし、その気になればすぐ身につけることができる。

 
もっと大事なことは、そもそも「何のために何を検索するのか」という問題意識を持つことだ。
問題意識がなければ、検索力があっても意味はない。

 
自分は何をやりたいのか、そのために何を調べるのか、何を学ぶのか、それを自ら見つけ出して、情熱を傾けられる能力が大切だ。
これに関して、野口氏も「問題設定力が必要」と言っている。

 
ところで、ここが肝心なところなのだが、こうした能力はどこから出てくるのか。
つまり、自分はこれをやりたい、そのためにこれを調べる、そのためにこれを学びたいという問題設定力を身につけるにはどうすればいいのか。

 
それは、ずばり、熱中体験である。
その成長過程において何かに熱中したことのある人は、自分のやりたいことを自分でどんどん見つけることができる。

 
自分がやりたいことに熱中した経験がたくさんある人は、熱中することの楽しさを知っている。
そして、自分の興味のあることを楽しみながら深める方法を身につけている。

 
そういう人は、仕事においても、自分で問題設定してどんどん取り組むことができる。
たとえ上司に「この仕事をやれ」と命じられたものでも、その枠の中で楽しみを見つけて熱中して取り組むことができる。
最初は与えられた仕事でも、だんだん自分なりの問題設定をして楽しむようになる。
そういう人なら、検索力もデジタルスキルも生きてくる。




●中学受験も入試も古い学力体系
 

小さいときから受験受験で過去問を解く学力ばかり磨いていると、こういう熱中力が育たない恐れがある。
つまり、これからの時代に本当に大切な問題設定力が育たないということだ。

 
実際、そういう経歴で優秀な大学を出てきた人が会社であまり活躍できないという例は、驚くほど多い。
言われたことはきちんと手際よくできるが、自分で斬新な企画を生み出す、新しいビジネスの地平を開拓するといったことになるとまったくお手上げという例がたくさんあるのだ。

 
ポケモンでも魚でも何でもいいから、自分でやりたいと思ったことに熱中した子どもは熱中力が身につく。
それは問題設定力が身につくということなのだ。

 
それは仕事においても本当に大切な能力であるが、個人の人生を充実させるのにも必要不可欠の能力だ。
この能力がある人は、自分のやりたいことをどんどんやっていくことができる。
自分は何をやりたいのだろう、何をやればいいのだろう、などと悩むことはない。

 
ところで、中学受験もそうだが、入学試験はすべて古い学力体系の中にどっぷりと漬かっている。
「過去問」を与えられた時間の中で効率的に解くという能力が、これからの時代にどれほど必要かを疑うべきだろう。

 
もちろん、それがまったく無意味とは言わない。
なぜなら、言われたことをきちんと手際よくやる能力も社会では必要だからだ。
だが、そこに時間とエネルギーをかけすぎると、もっと大事なものが育たないということは頭に入れておく必要がある。

 
今、中学受験で目の色を変えている親たちが、大事なものを見落としているのではないかと心配だ。