子どもたちの夏休み期間中は、あちらこちらで親子連れを目にする機会が多かったが、見ていると二つのタイプの親がいることを改めて感じた。
一つは子どもに対して穏やかに受容的、共感的に接している親。
もう一つは感情的に子どもを怒鳴ったりガミガミしかったりする親だ。
先日、東京駅で小学校高学年の男の子と低学年の女の子を連れたお父さんとお母さんを見た。
どうやら、男の子がキップをなくしてしまったようで、改札の中で半べそをかきながらポケットを探しまくっている。
お母さんと妹は既に改札の外に出て待っていた。
お父さんがしびれを切らしたように、「何をしているんだ!! だらしない!!」と男の子を怒鳴りつけている。
焦った男の子は泣きべそでポケットをひっくり返しているが、見つからない。
わたしはこの光景を見て胸が痛くなった。
見るからに楽しそうな家族旅行なのに、たかがキップ1枚で台無しだ。
そのお父さんはひょっとすると、長男をしつけているつもりかもしれないが、そうしたやり方で子どもがしっかりすることはあり得ない。
わたしの教師体験を通じて、それは断言できる。
それどころか、困っているとき、つらいときに、親といえども足で踏みつけるような対応をされれば、心が傷つくだけだ。
それが日常的に行われていれば、子どもの心は不安定になり、さらに親の愛情への疑いが芽生える。
●子どもの失敗もしからずに安心させる
子どもがキップをなくしたときには、駅員に一言言えばほとんどの場合、改札をそのまま通してくれる。
だから、「何をしているんだ!!」と怒鳴らずに、「なくなっても駅員さんに言えば大丈夫だよ」と焦っている子どもを安心させてやってほしい。
それから一緒に探せばいい。
数日前には、駅で男の子を連れたお父さんがチラシのような1枚の紙を子どもからひったくって、投げ捨てている光景を目撃した。
一緒に遊びに行く途中なのか分からないが、子どもは驚いたような顔をしている。
「そんなチラシを持ってくるな」という意味なのだろうが、なぜそんな乱暴なことをするのだろうか。子どもがどれだけ傷つくか分かっていないし、不要なものなら路上に投げ捨てていいと教えているようなものだ。
投げ捨てなどせずに、「それは要らないから元に戻してきなさい」と注意すればいいことだ。
穏やかに対応できる親に育てられている子は気持ちが安定するし、親を見習って、友だちにも同じような接し方ができる優しい子になる。
しつけのためだと厳しく子どもに当たることは、友だちにも同じような対応をするように教えているようなものだ。
友だちが何か失敗したりトラブルになった場合、助ける前に、その子を叱責(しっせき)するようになるだろう。
先の4人家族の場合、典型的にまずいのは、上が男の子で、下が女の子だからだ。
妹は改札越しに「お兄ちゃん、何やってんの。しっかりしてよ!!」と大声を上げていた。
それを聞いて、わたしはきっと家でこのお兄ちゃんはいつも「妹みたいにしっかりしなさい」と言われているのだろうなと思った。
小学生の場合、男の子より女の子の方が一般的にしっかりしている。
また、上の子より下の子の方がませているし、自己管理能力が高い。
だから、上が男の子、下が女の子となると、多くの場合、男の子がのんびりしていてテキパキ行動できず、女の子の方がしっかりしていて口も達者だ。
親とすれば、妹の方が頼もしく、「お兄ちゃんのくせになんてだらしない」ということになりがちだ。きっと、その子も妹と比べられて、あれこれ言われているのだろう。
「しっかりしてよ!!」という妹の声は実はお父さんとお母さんの声であり、妹はそれを真似ているだけだ。
●マナーは相手を思いやる気持ち
品川のファミリーレストランでこんな親子連れを見た。
父と母、子ども3人の5人家族だった。
料理が運ばれてきて、男の子がひょいと自分のフライドポテトに手を伸ばした。
すると、お母さんは鋭い声で、「何で勝手なことをするの!!」としかりつけた。
よくある光景かもしれない。一見、こうしたしつけは正しいように思える。みんなの分がそろってから食べるのがマナーだからだ。
しかし、マナーの元々の意味を考えてほしい。
マナーとは相手を思いやって、お互いに不快感をもたずに社会生活を営むためのルールだ。
思いやりを形にしたものがマナーである。
ところが、感情的にしかりつけることは相手の気持ちを全く思いやっていない。
いきなりしかりつけられたら、子どもでも大人でも不快感を持つだけなのだ。
不快感を持つと、自分が悪いと思っていても反発心が生まれて、素直に相手の言うことや忠告を聞けなくなる。
読者のみなさんにもそんな経験はあるだろう。
要するに、大切なのは「ものの言い方」である。
相手の気持ちを思いやって、ユーモアを交えながら、「賢い子ならみんなの料理がそろうまで待てるよね」とか「待てば待つほどおいしくなるよ」とか、「みんながそろって食べるとうれしいよね」など、穏やかに子どもを諭すこともできるはずだ。
形だけのマナーを教えても、その根底にある思いやりを理解できなければ、マナーが身につくことはない。
「しかる」とは、各辞典によると次のようなことである。
「声をあらだててとがめる」(広辞苑)
「相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める」(大辞林)
「目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる」(大辞泉)
もし、子どもが、人間としてやってはいけないことをしたとか、人を裏切ったとか、人の心や体を傷つけたなどというときには、しかること、つまり声を荒立てて感情的に強くとがめることが必要な場合もあるかもしれない。
だが、日常生活の中で、細々したミスや失敗などの一つ一つを、声を荒立てて感情的に強くとがめる必要があるはずがない。
しかるのではなく、穏やかに諭す、上手に言って聞かせる、優しく注意する、やる気になるように啓発する ―― これらのことが大切なのだ。
●細かいしつけよりも、土台としてのいい親子関係づくりが最優先
子どもをしかることやしつけることが最優先になっている「しかり主義」や「しつけ主義」だと、親子関係が崩壊することが多い。
しかられることの不快感が子どもの中に積もっていき、親への不信感になっていくからである。
なにはともあれ、まずはいい親子関係をつくることが最優先であり、子どもが親に受け入れられている、理解されているという気持ちを持てるようにしてやることが一番の土台だ。
親子関係がいい状態なら、子どもは素直に親の言うことを聞き、できる限りがんばろうと努力する。
すぐにはできなくても、そういう方向でがんばろうという気持ちにはなる。
また、子どものときだけでなく、いい親子関係なら、生涯にわたって親の話も素直に聞いてくれる。
反対に、親子関係が崩壊していると、親がいくらいいことを教えようとしても、子どもは素直に聞く気になれない。
それどころか、特に思春期以降は、反発心が先に立ち、親の言うことの反対を敢えてやろうという気持ちにすらなっていく。
もし、力でねじ伏せて言うことを聞かせても、親のいる前ではいい子ぶるが、いないときには糸の切れたたこのようにコントロールできなくなる。
もちろん、しつけをするなと言っているのではない。
生きていく上で身につけた方がいい習慣やマナーを教えるのは親の役目だ。
しかし、それを、しかること、つまり感情的に強くとがめることで実現しようというのがまずいと言いたいのだ。
そうではなく、子どもが自然にできるような環境やシステムをつくってやり、少しでもできたら褒めてやり、できなければさらに工夫することが大切なのだ。
口で子どもに伝えるときも、穏やかに諭す、上手に言って聞かせる、優しく注意する、やる気になるような言い方をする、これらのことが本当に大切なのだ。
何の工夫や努力もせずしかり続けるのは、親が子どもに甘えているのである。
親子という関係に親が甘えているのである。
●「他人の子や大人もしかれるか」を基準に
親は「子どもしつけるため」としかることを正当化しても、実のところ、仕事や夫婦関係のイライラが本当の原因であることが多い。
それは自分の人間的未熟さの表れだが、なかなか自ら認めたくない。
そこで、子どもをしかりたくなったときに、一つの基準にしてほしいことがある。
「他人の子や、大人に対しても同じことが言えるかどうか」だ。
もし、我が子にだけできるなら、それは親が子どもに甘えている。
親子関係に親が甘えているからできるのだ。
人間関係はお互いの気持ちを思いやることから育つ。
親子関係も例外ではない。
親子は他人の始まりと言うではないか。
親子関係に甘えて理不尽な接し方をしていれば、いつかそのしっぺ返しがあるだろう。
親の意味を勘違いしてはいけない。
親は子どもを育てているが、子どもは自分の所有物ではないのだ。
子どもは未熟ながら一人の人間である。
誰かが言っていたが、子どもは天からの授かりものではなく預かりものなのだ。
読者のお父さんやお母さんも子どもをしかりたくなったら、ぐっとこらえて、その言い方で他人の子どもにも言えるのか、大人にも言えるのかと考えてほしい。
言えないようなら、我が子といえどもそういう言い方はすべきではない。
初出「親力養成講座」日経BP 2008年9月5日
初出「親力養成講座」日経BP 2008年9月5日