教育の成果には、数値で測ろうとすれば一応測れるものもある。
例えば、テストの点や50メートル走のタイムなどは、測ることができる。

 
だが、それらは教育の成果のごく一部である。
教育全体の百分の一もないかもしれない。
教育の成果は測れないものの方がはるかに多いのだ。


教師の仕事は学力の向上だけでなく、クラスを円滑に運営し、子どもたち同士の関係をよくすることも重要である。


仮にある先生がクラス運営に全力を投入し、子どもの気持ちを理解して一人ひとりを大切にしていたとしよう。
やさしく一人ひとりに声をかけ、休み時間に仲間から外れている子どもを遊びの輪に入れてあげたりするなど気を配り、和気あいあいのクラスになってきた。


これは大きな成果だが、いったいどのように数値化するのか。

 
担任の先生自身にはもちろんその変化が分かる。
そのクラスに入って音楽を教えている先生がいたとしたら、その先生にもかなりの程度分かる。
同じ学年の先生にもある程度分かる。


しかし、校長には分からないことが多い。
同じ校内にいても、外から見ているだけでは各クラスの微妙な「変化」は見えにくいものなのだ。




●本当の学級経営力は数値で評価できない
 

例えば、7月の段階であるクラスの人間関係の状態が「まあまあいい状態」だったとする。
それには三つのケースが考えられる。


一つ目は、もともとまあまあ温和な子どもたちが集まったので4月からそうだったということである。二つ目は、けっこう気の強い子どもたちが集まっていたのにもかかわらず、担任の人間性と努力によってよくなったということである。
三つ目は、4月はもっとよくて「非常にいい状態」だったのに、だんだん荒れてきて「まあまあいい状態」になったということである。

 
これは、非常に微妙なことがらなので、校長にはなかなか分からないことが多い。
二つ目のケースでも、自己アピール力のある担任なら、自分でそれを校長に伝えることもできる。
だが、多くの教師は、特に良心的な教師は、だいたいにおいてそういうことが苦手なものなのだ。

 
ほとんどの教師は、そういう微妙な成果を自分で感じたときに、大いに喜びを感じて自己満足する。
温かいものがこみ上げてきて、教師としてのやりがいを実感する。
校長に分かってもらうように努力しよう、などとは思わないものなのだ。
こういう教師たちが教育現場を支えているのだ。

 
基本的に教師の仕事は自己満足で納得しなければならない部分が非常に多い、というのがわたしの実感だ。
わたしも、23年間の教師生活の間中、それを実感し続けていた。
今改めて振り返ってみても、自分がやってきたものを、誰かが数字で評価できるなどとはとても思えない。

 
親が自分と子どもとの関係を他人が正しく評価できるか、また数字で評価できるか考えてみてほしい。心の状態や人間関係など、微妙な部分は数値などで表せないということが分かると思う。




●目立つことをし、アピールする教師が増える
 

ある若い先生がいた。
授業はまだうまくないが、若さを生かして、子どもたちと一緒に外で遊び、優しいし、ユーモアもあって子どもを笑わせるのがうまかった。
そのおかげで、前年までは笑わなかったある児童が笑うようになった。

 
これはすばらしい教育的成果だ。
だが、それを数値で評価できない。
そんな事例はまだまだいくらでもある。
これこそリアルな教育の現場であり、教師の喜びだ。

 
こうした当たり前のことを無視して、数字原理主義、競争主義を教師の評価に導入したらどうなるだろうか。
本当に必要な教育的配慮がないがしろにされ、クラスがギスギスして、いじめも増えるだろう。

 
校長が数字だけで担任を評価するようになれば、学級経営力の評価ではいじめやトラブルがないことが重視される。


すると、担任は自分のクラスにいじめが起きても校長に相談できない。
親とトラブルになっても相談できない。
若い教師がベテラン教師に教えを請うことにも二の足を踏む。
相談すれば評価がマイナスになるからだ。
既にそうした現象が起き始めている。


 
このままいけば、高い評価をもらうためにうまく校長や副校長に自分の成果をアピールしたり、目立つことをやったりするような教師が増えるだろう。

 
既に教師の評価には成果主義が取り入れられている。
さらに、その評価が給料に反映させようという動きもある。
そうなると、給料全体のパイは変わらないので、その中で奪い合うということになる。

 
よほど校長、副校長による評価が公平で正当性がなければ、誰も納得しないだろう。
だが、非常に難しいことは分かりきっている。
はっきり言って、それは不可能なことなのである。
また、協力し合うべき教員同士が疑心暗鬼になり、自分さえよければという風潮を招く可能性が高い。

 
日々の指導においては、同じ学年を受け持つ教師たちがチームワークよく協力しなければ何事もうまくいかない。
自分のクラスだけ優先的に考えていては、お互いにとってマイナスになるばかりだ。
だが、評価のことが大きくのしかかってくれば、そういう風潮が蔓延することになるだろう。




●校長をいさめる教師がいなくなる!?
 

校長に評価を任せてそれが給料にも反映されることになると、教師たちが校長に意見を言えなくなる恐れもある。

 
わたし自身は教師時代、自分が正しいと思ったことは校長に直言してきた。
例えば、ある校長は親受けのする校内行事を増やすことに熱心だったので、わたしは強く反対した。

 
「これ以上、行事を増やすと、じっくり勉強する時間がなくなり学力の低下にもつながる。
追い立てることが多くなり、子どもも落ち着かなくなる。
教師と子どもの負担が限界に近いので、反対だ」と主張すると、他の教師も賛成してくれて、校長も意見を引っ込めた。

 
学校運営は子どものためになるかどうかで判断すべきだ。
ところが、子どもの方を見ないで親の方ばかり見ている校長もたくさんいる。
日々の地道な指導よりも目立つ「花火」を打ち上げることに熱心な校長に対しては、これをいさめる教師が絶対に必要なのだ。

 
行事のことだけでなく事務処理の軽減についても、わたしはいろいろと提案してきた。
教師はただでさえ多忙を極め、これ以上負担を増やすと子どもの指導に時間を割けなくなる。
学級経営案、学年経営案、研修計画、教科指導計画、道徳指導計画などの提出文書も多く、出席簿や成績作成でも時間のかかる作業が多い。

 
例えば、出席簿一つをとっても必要以上に「丁寧」に作らせたがる校長が多い。
毎日、あるいは1週間ごとに出席率を計算させたり、欠席理由を何カ所にも重複して書かせたりなどだ。
あまりに無駄なことが多いので、わたしはずっと合理化を提案してきたのだ。
でも、これからは、校長の意に反してそんな提案をしたら評価は減点だろう。

 
これら行事のことや事務処理の軽減のことで、わたしは校長から「やる気がない教師。仕事に消極的な教師」と見えたかもしれない。
だが、わたしは、自分が言ったことが子どもたちのためになったと思っている。

 
校長に評価を任せてそれが給料にも反映されることになると、教師たちは校長にものを言いにくくなるだろう。
それは、結局子どもたちのためにならないことなのだ。




●成果主義による評価が教師を追いつめる
 

教員免許の更新制度も再来年から始まる予定で、講習や研修でさらに教師は時間が取られる。
次々に作られる制度や成果主義がますます教師たちを追いつめている。
結果的に被害を受けるのは子どもたちだ。

 
前回も書いたように民間企業でさえ、評価システムがうまく機能せず、成果主義から撤退している企業があるのに、学校でマネジメントできるとは思えない。
あいまいな評価基準は教師に不満だけを残し、やる気をそぐ。
校長の印象によって評価されるようになったら、良心的で能力のある教師は学校を去るかもしれない。

 
ただでさえ、人手不足の学校教育は打撃を受けて、存続が難しくなるだろう。
文部科学省は教師の2万人増を求めているが、財務省にあっさり蹴飛ばされた。

 
財政再建のために教員増も認めないそうだが、日本の公教育支出は先進国の中で最低レベルである。OECD「図表で見る教育」2006年版でも、日本の教育機関関連支出のGDP比は4.8%で、OECD平均の5.9%を大幅に下回っている。

 
ちなみに米国は7.5%、英国は6.1%だ。教育をここまでないがしろにしている国に真の教育改革などはできないだろう。

 
日本の教育改革の大前提にあるのが、お金をかけないで、つまり教師を増員しないで教育改革をしようということである。
そのために、小手先でいろいろなことをやっているのである。

 
学力テストも、教師の評価制度も、6・3制から4・5制の変更云々も、授業時間増も、あれもこれも、すべてが小手先のことである。
そして、その小手先のことをごちゃごちゃ行うので、教育現場はますます負担が増えてますます混乱している。

 
今、本当に一番必要なのは、先進国並みの少人数学級にすることなのである。
これは、教育の現場を知っている人たちには、自明の理なのである。

 
だが、悲しいかな、教育現場をよく知っている人たちは、みんな社会的・政治的発言力がないときている。
だから、先進国の中で日本だけが突出した40人学級だということすら一般に知られていない。
外国はどこもかしこも15人学級から28人学級くらいで、30人学級の国すらないのである。

 
先進各国は財政に余裕があるから教師を増やして少人数学級にしているのだろうか? 
いや、そんなことはない。
どこも財政的に大変な中で、それでも教育には予算を振り向けているのである。