文部科学省は10月24日、全国の小学6年生と中学3年生、約222万人を対象に4月に実施した全国学力テストの結果を公表した。

 
案の定、各都道府県で得点差(正答率)を巡って、「予想以上に我が県は低かった」「まあまあの成績で安心した」などと既に序列付けが始まっている。

 
わたしは全国統一の学力テストなどやるべきではなかったと思っている。
文科省は「学力・学習状況の把握と、児童生徒一人ひとりの学習改善や学習意欲の向上につなげる」と目的を述べているが、おそらく全く逆の結果となるだろう。

 
もし、学力の把握をしたいのなら、全国一律など不要で、統計学的に有意なサンプルを抽出して調査すればいい。
実際、これまでも抽出調査をやってきたのだから、それで十分である。

 
となると、全国学力テストには他の狙いがあるとしか考えられない。
それは、教育に「数字原理主義」「競争原理主義」を持ち込み、全国の自治体、学校同士を競わせることだ。

 
それが現在、騒がれている“教育改革”の本質らしい。
何でも数字と競争、成果主義で効果が上がると考えているなら、ずいぶん見識が低い話ではないだろうか。

 
今、教育改革を議論している人たちは経済や政治に携わっている人が大半で、現場で教えている教師や教育者、教育学者の意見はほとんど反映されていない。

 
その結果、教育も数字で競わせて、学力を上げ、その成果によって教師や学校を評価しようということになったのだろう。

 
しかし、教育は競争原理では動かない。




●成績の悪い子を救うのが教育
 

子どもや学校を競わせれば学力が上がると思っている人たちは、学校教育の現場をまるで知らない。
確かに中学受験を目指すような一部の学力の高い子どもたちは、他の子に負けまいとさらにがんばるかもしれない。
彼らは自分で勉強する方法を知っており、そのための環境もあるからだ。
だから、進学塾がこうしたやり方に賛成する。

 
しかし、テストで50点取れないくらいの子どもたちが競争によって学力が上がることはない。
これは断言できる。
競争で学習意欲が高まるという段階ではないのだ。
彼らに必要なのは、その子に応じたきめ細やかな指導なのである。

 
わたしの知っているA先生はクラスで一番勉強のできないB君を決して感情的にならずやさしくねばり強く教えている。
B君は小学3年生だが、そのおかげで、ようやく1年生の足し算ができるようになった。

 
競争主義ではこうした子たちは逆に自信とやる気を失って、学力は上がらない。

 
学校同士で平均学力を競い合うようになって、クラスの平均を上げろと担任に圧力がかかったら、多くの担任は間違いなく、成績が中程度、60~80点ぐらいの子どもたちを集中的に指導するだろう。
しかも、テストで出そうな問題の解き方を、過去問題や類似問題を元に教えることになるだろう

 
成績の下位層も上位層もそれ以上は簡単には上がらないが、中位層はすぐに上がる。
そして、60点以下の子どもたちが放っておかれるようになる。
それで学校といえるのだろうか。

 
フィンランドの教育は、成績が下位層の子どもたちの底上げに全力を注いでいる。
1学級の人数が最高で24人(日本は先進国で唯一、40人学級)と少ない上に、常時複数のアシスタントティーチャーがきめ細やかに個別対応をしている。
「一人も取り残さない」という決意がみなぎっているのである。

 
今、日本がやろうとしている教育改革には、そういう決意は全く見られない。
一言で言えば、数字原理主義、競争原理主義、弱肉強食主義、つまり強者の論理による教育改革である。
その行き着く先を、本気で想像したことがあるのだろうか?




●成果主義を見直し始めた経済界
 

経済界でさえ、今数字原理主義や成果主義の見直しが始まっている。

 
三井物産は、それまでの人事制度を2006年に改革して、「個人の能力を正しくとらえるための『三井物産能力開発基準』を策定し、高い志で業務に取り組んでいるか、自らを謙虚に振り返って行動を正し、フェアに振る舞っているかなど、数字に表れてこない側面についての行動基準も定めた」という。

 
数字では評価できない要素もきちんと見ようということだ。

 
資生堂も対面販売をする美容部員の評価制度を改革し、それまでの「数量インセンティブ」、つまりノルマを全廃し、顧客満足度を評価基準にした。
ノルマ主義では、お客に合わないと思った化粧品も美容部員が売ることがあるだろう。
そうなれば、長い目では顧客の信頼を失うということに気付いたのだ。

 
ビジネスも人を相手にするだから、数字だけでは成り立たないのは当然のことだ。
それなのに、子どもを相手にする教育界がなぜいまさら数字や成果主義を導入しようとしているのか、全く理解できない。

 
ひょっとすると、文科省自身はやりたくないのかもしれないが、全国学力テストの結果を利用して競争させたいと思っている勢力が圧力をかけているのかもしれない。
今、止めなければ、取り返しのつかないことになる。

 
実は1956年から66年まで、全国学力テストが実施されていた時期がある。
当時も自治体間や学校間の競争が激化し、テストの時に勉強のできない子を休ませたり、答えを暗示したり、テストの練習をするなど、点を上げることに目的が向かい、社会から批判を浴びて廃止したのだ。

 
それを再び繰り返そうとしている。
今は、40年前より競争が激しくなって、もっと深刻になるだろう。




●成績の情報開示が不正を呼び込む
 

既に競争の予兆はある。

 
例えば、足立区では全国学力テストのテスト中、教員が児童の答案を見て回り、間違いを見つけたら、指で指したり、机をトントンと叩いたりして、気付かせるようにと小学校校長が指示を出していたことが発覚した。

 
足立区は2004年に東京都が行った学力テストの結果、東京23区中最下位の成績に終わった。
それに危機感を持った区や教育委員会が学力向上に取り組み、区独自の学力テストも導入して、全学校の成績順位(正答率やその伸び率)を公表することにした。


さらに、成績の伸び率によって学校を4段階にランク分けし、予算の配分を決めるという暴挙にまで踏み込み、さすがに社会の批判を浴びて計画を引っ込めた。
こうした背景があって、校長の不正な指示が生じたのだ。

 
当然ながら成績アップの圧力が不正を呼び込む。
その校長もよかれと思ってやったのかもしれない。

 
もし、文科省が自治体別や学校別の成績を公表するようなことをしたら、全国で次から次へと同じ事件が起きるだろう。

 
文科省は今のところ、各教育委員会に市町村別や学校別の結果を公表しないように求めているが、最終的には市町村や学校が判断することになっている。

 
もし、親や市民が結果の開示を求めて、情報公開請求をした場合、応じざるを得なくなるかもしれない。
実際、大阪府枚方市では、独自の学力テストの学校別成績を非開示にしたところ、市民が公表を求めて提訴し、市民側が勝訴し、開示を余儀なくされた。

 
「情報をすべて公表しろ。なんのための全国調査なのか。公表を嫌がるのは学校や教師が競争を嫌って、楽をしたいからだ」という人もいるが、それは全くの誤解だ。
ランキング化によるマイナスの大きさがよく分かっているからこそ、反対しているのだ。

 
学校も教師の仕事も数字によって評価されるものではない。
それでも無理やりそうするならば、最も被害を受けるのは子どもたちなのだ。
そこに目を向けてほしい。塾や受験関係者の無責任な声に踊らされてはいけない。




●学校ランキングは地域格差も生む
 

メディアもさぞかし、市町村別、学校別の学力ランキングを作りたいだろう。

 
だが、それに小中学校の学校選択制が結びついたらどんなことになるだろうか。
確実に親は、学力テストの結果のよい学校を選ぶようになるだろう。

 
教育の一側面でしかないデータ(しかも各学校の“取り組み”によって変わる、正確とは言えないデータ)が一人歩きし、序列化が進み、風評も重なって、ランキングの高い学校に入学希望者が殺到するようになる。
しかし、学校の受け入れられるキャパシティは決まっているから、入学者を選抜しなければならなくなる。

 
その手段はどうするのか。
抽選か、学力順か。
抽選となれば親の不満が残る。
学力で選んだらますます格差が進む。


それとも、ランキングは発表するけど、基本的には自分の地域の学校に行くというようにするのだろうか? 
そうなれば、ランキングの高い学校に入れるために引っ越すような親が必ず出てくる。

 
そうなれば、おカネを持った家はよりよい学校の周辺に集まり、学校格差、学校差別、地域格差、地域差別が起きる。

 
実際、英国ではそうなっている。
小学校から序列化が進み、評価の高い学校のある地区には裕福な人たちが移り住み、地価や家賃が上がっている。

 
日本は、この英国の競争主義的教育改革をお手本にしているようだが、実は英国の学力は国際的調査によると日本より低い。
それなのに、なぜ英国を真似ようとするのだろうか。
フィンランドもかつて学力テストをやるなどの競争主義だったが、その競争主義を捨ててから学力が高くなったのだ。

 
序列化による教育改革など成功するはずがない。
放っておけば、公立学校の制度自体が崩壊するだろう。
直ちに全国学力テストを廃止し、教師を増員して、一人ひとりの児童生徒を指導できる体制を作るべきだ。

 
教育現場を無視し、混乱を与えるだけのえせ改革は百害あって一利もない。
これ以上、学校や教師に余計な手間や労力をかけさせず、教育と指導に注力できる環境を作ることが最大の教育改革である。