一時期、全国の小中学校でノーチャイムなるものが流行ったことがありました。
これは、授業の始めと終わりの時刻にチャイムを鳴らさないということです。

なぜ鳴らさないかというと、チャイムによって動かされるのではなく、時間を意識して自主的に動ける子にしたいからです。
休み時間に外で遊んでいても、授業開始時刻になったら自主的に戻ってきて席に着ける子にしたいからです。

新聞や雑誌でも、ノーチャイムを実施している学校が度々紹介されました。
そこでは、校長先生,教師、PTA会長、親たちが、みんなノーチャイムはすばらしいとコメントしていました。
学校を視察した有識者も、すばらしいと誉め讃えていました。

でも、私は、ノーチャイムに一貫して反対でした。
なぜなら、ノーチャイムは子どもの自主性を損なうものだからです。

例えば、小学校低学年のA君はダンゴムシに興味がありました。
1時間目の後の10分間休みに、A君は学校の裏庭でダンゴムシ探しに没頭しています。
没頭するあまり授業開始時刻が過ぎているのに気が付きません。
はっと我に返って慌てて戻ったら、2時間目が始まってもう5分も過ぎています。
教室の入り口ですごい形相で待ち構えていた先生に、「自主的に動きなさいって、何度言われれば分かるんだ!!」と怒鳴られました。

次の休み時間になりました。
この休み時間は20分間です。
でも、A君はダンゴムシ探しに行こうか行くまいか迷っています。

また授業に遅れたら、どんな目に遭うか分かりません。
でも、大好きなダンゴムシ探しをやりたくて仕方がありません。
1人では不安なのでB君を誘ってみましたが、あっさり断られました。

そのとき、A君は、あることを思いつきました。
「そうだ!靴箱のところの時計をときどき見に来ればいいんだ」
つまり、裏庭には時計がないので、靴箱のところにときどき見に来ればいいと気が付いたのです。
それで裏庭でダンゴムシ探しを始めました。

でも、そのときは既に休み時間が始まって5分も経っていました。
A君はしばらくダンゴムシを探していましたが、急にぱっと立ち上がって靴箱のところに時計を見に行きました。
「よかった、まだ9分ある」
それでまた裏庭に走って戻り、ダンゴムシ探しを続けました。

でも、なんだか落ち着かないので、すぐまた靴箱のところに時計を見に行きました。
「なんだ、まだ3分ある」
それでまた裏庭に走って戻り、ダンゴムシ探しを続けました。
でも、いよいよ落ち着かないので、すぐまた靴箱のところに時計を見に行きました。
「あっ、まだ1分ある。どうしようか?」

このA君は実在します。
そして、当時、ノーチャイムを実施していたあちこちの学校でこういうことが起きていたのです。
そして、休み時間に外に遊びに行く子も減っていました。
これで一体どんな「自主性」が育つというのでしょうか?

チャイムが鳴らなくても子どもたちが授業開始時刻に席に座っているように、先生たちはあの手この手で骨を折りました。
道徳の授業では、時間を守ることの大切さを教えました。
学級活動の時間では、クラスの全員が授業開始時刻を自主的に守るための方法を、子どもたちに話し合わせたりしました。

「お互いに声を掛け合う」とか「ポスターを作って貼る」とか「いつも時間を気にかける」とか「守れない人は残り掃除にする」などと決めたりしたものです。
これで一体どんな「自主性」が育つというのでしょうか?

私は、きちんと授業の始めと終わりにチャイムを鳴らすべきだと思います。
そして、チャイムが鳴ったら、先生たちはすぐに授業を終わるべきです。
そして、子どもたちは、休み時間に好きなことを時間を気にせずやればいいのです。

ダンゴムシ探しをしたい子、友達と遊びたい子、おしゃべりしたい子、のんびりしたい子、本を読みたい子、ドッジボールをしたい子、縄跳びをしたい子、みんなそれぞれのことをやればいいのです。
それが自主性です。

A君はせっかく自主性を持ってダンゴムシ探しに没頭したかったのに、ノーチャイムのせいで時間を気にしなければなりませんでした。
本当は、時間を忘れてダンゴムシ探しに没頭させてやることこそ自主性を育てることのはずです。
時間を忘れて没頭しているときにキンコンカンコン鳴って、「あっ、戻らなければ。もっとやりたいのにしょうがないな・・・」と思いつつ戻ってくればいいのです。
それが自然の姿です。

ノーチャイムが自主性を育てるなどというのは、欺瞞以外の何ものでもありません。
私は、この手の欺瞞が大嫌いです。
どうしてこのような欺瞞が生じるのでしょうか?
それは大人の価値観に合うことだけに自主性を認める、という習性が全ての大人にあるからです。

教師は、子どもが授業開始時刻を自主的に守ることには最高の価値を認めます。
でも、ダンゴムシ探しに自主的に没頭してもたいした価値を認めません。
自主的に遊んだり、自主的におしゃべりしたり、自主的にのんびりしたりしても、全く価値を認めません。
これこそが本当の自主性なのに。
私に言わせれば、自主性がないと叱られたA君こそ自主性がある子です。

最高にすばらしい授業なので、何も言わなくても子どもたちが自主的に授業が始まる前から座っていた、というのならいいと思います。
でも、無理に座らせておいて「自主性がある」などと言ってはいけません。

教師のことを書いてきましたが、親たちにしても事情は全く同じです。
ある年、私が2年生を受け持ったときのことです。
まだ夏休みに入ったばかりのころに、保護者面談がありました。
その面談で、あるお母さんが「うちの子は夏休みの宿題をもう全部やってしまって・・・」と話し出しました。

その子は、「後の30日はひたすら遊びまくる」と宣言したそうです。
そのお母さんは、「宿題以外の勉強もやらせたいのに」と嘆いていました。
私は言いました。
「すばらしい子です。こういうのを自主性というのです。この子は最高の夏休みを過ごすでしょう。そういう子が、自分の人生を切り開いていけるのです」

自分がやりたいことを思い切りやる熱中体験は、本当に大切です。
子どものときからそういう体験をたくさんしてきた人は、大人になっても自分のやりたいことをどんどんやっていけるのです。
仕事でも遊びでも、自分の道を切り開いていけるのです。
それが生きる喜びであり、人生の意義です。
子どもの自主性を本当に大切にしてやれば、そういう大人になるのです。

そのためには、子どもが大人に都合のいいことをしたときだけ「自主性がある」と言うのはもうやめましょう。

初出「エデュメリー」(バンタンデザイン研究所)2006年~2007年

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