前回書いたように、私は1983年に先生になったのですが、その頃は、朝礼、始業式、終業式などの入退場はクラスごと行進しながらおこなっていました。

音楽鑑賞会、観劇の会、児童会の行事などの入退場も行進でした。

ところが、私がいた地域では1991年頃から変化が訪れました。
子どもの「自己決定」が大事だという声が高まってきた頃です。

「クラスで並んで入退場していたのでは自己決定の力がつかないのではないか?」「子ども一人一人の判断で行動できるようにすべきではないか?」。
こういうことが言われ始めて、行進での入退場はやめることになりました。

つまり、朝礼や各種の式がおこなわれるときは、子どもそれぞれが自己決定して、間に合うように自分でその場に行くということになったのです。
もちろん一人で行ってもいいし友達と行ってもいいのです。

これによって、子どもたちは、たかが入退場の行進のために朝から追いまくられたり叱られたりすることがなくなり、先生たちも朝からがみがみ叱る必要がなくなりました。

子ども同士、あるいは先生と子どもが楽しくおしゃべりしながら三々五々集まるという感じになり、朝の時間が以前よりゆったりしたものになりました。

ただし退場のときは、出口に子どもたちが一気に集まってしまって危ないので、「○年生退場」というアナウンスをすることになりました。
指示された学年の子たちは行進ではなく普通に歩いて退場するのです。

変更する前の会議では、「時間通りに集まらない子がたくさん出る」「子どもたちがダラダラして規律が乱れる」「一度にどっと集まった場合入り口が混雑する」などの理由で反対する意見もありました。
でも、実際やってみると何の問題もなくスムーズにできました。

それどころか、行進での入退場をやめてみるといいことばかりでした。
長年しっかり指導するのが当たり前と思ってこだわってきたことが、実はどうでもいいことだった、それどころかない方がいいくらいのものだったとわかったのは驚きでした。
一体あれは何だったのかという感じでした。

しばらくしてから、会議がありましたが、もう一度行進に戻そうという先生はただの一人もいませんでした。
以前は行進の存続を強く主張していた先生たちも誰一人として行進に戻そうとは言いませんでした。

この連載の21回と22回に書いたように、学校における「自己決定」のブームにはおかしな面もありましたが、この件に関してはいい作用があったと思います。

ところで、朝礼、各種の式、行事などについて、もうひとつ今振り返ってみると異常だったと思えるのは”始まる前はおしゃべりしないで静かに待つ”という暗黙のルールです。

つまり、行進で入場してそれぞれのクラスの場所につき、それから式などが始まるまで時間があるわけですが、その間おしゃべりしてはいけないということになっていたのです。

子どもたち全員がきちんと体育座りをして、おしゃべりしないでシーンと待っていられるクラスが立派なクラスということになっていました。
もちろん、そういうクラスの先生は指導力のある先生ということになっていたのです。

そうする理由としては、「おしゃべりなどしていては気持ちが乱れる。静かに待つことで、これから始まることに心を向けて集中力を高めるべき」というようなことでした。

でも、本当は待っている間は何もすることがないわけですから、友達とおしゃべりしたりじゃれ合ったりするのは自然のことです。
実際に始まったらそのときに静かにすればいいわけで、始まる前から静まりかえっている必要などないのです。

それについて思い出すのは、ある年の演劇鑑賞会のことです。あ
るとき、学校の子どもたち全員で「たんぽぽ劇団」の演劇を見る会がありました。

ところが、その鑑賞会が始まる前に、ある女の先生がクラスの子どもたちを叱りつけていました。
理由は、体育館に集まってから開会までの間、静かに待っていなかったということです。

これから楽しい演劇が始まるのに、そして子どもたちはずっとこの日を楽しみにしていたのに、その先生はものすごい剣幕で叱りつけていました。

子どもたちはみんなうなだれて下を向いていました。
子どもたちが本当にかわいそうでした。
これから楽しい劇を披露しようとしている劇団の人たちにとっても、これは大いに迷惑なことだったと思います。

ところが、夏休みに職員旅行で東京に行ったとき、こういうことがありました。
先生たちみんなで劇団四季のミュージカルを見たのですが、劇場に入ってからミュージカルが始まるまでの間、先生たちはみんなしゃべりまくっていました。
もちろんその女の先生も大いにしゃべっていました。

それはそうです。
それが普通です。
幕が開いて演劇が始まるまで友達としゃべりまくり、幕が開いたら静かになる、それが当たり前であり、世界中の人がみんなそうしています。

こんなとき、シーンと待っているべきだと考える人などいるはずがありません。
そんなことは不自然であり、まるで無意味なことです。

でも、当時の学校ではその当たり前のことが許されず、不自然かつ無意味なことが一生懸命に”指導”されていたのです。

さらにもう一つ、朝礼や各種の式などについて、今振り返ってみると異常だったことがあります。
それはその間中ずっと立っているのが当たり前という暗黙のルールです。

今は話を聞くときは体育座りが普通になっていますが、当時は校長先生やいろいろな先生の長い話を、ずっと立って聞くのが当たり前だったのです。

ですから、夏休み直後の2学期の始業式の時などには、貧血で倒れる子もけっこう出ました。
こういうとき倒れる子は夏休みの生活が乱れていたからだ、子どもが倒れないクラスは立派だ、そのクラスの先生は指導力がある、などと思われていました。

この他にも、その時は当たり前と思っていたことでも、後で振り返ってみると異常だったということはまだまだありますので、次回も続きを書きます。
これを読むことで、「今当たり前と思ってやっていることも、実は異常かも」という視点を持っていただけたら幸いです。

初出『教職課程』(協同出版)2014年7月号

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