本当に苦しい2年間でした。
でも、この苦しい2年間が私を変えてくれました。

私は猛反省して、教師として、さらには人間として生まれ変わったと思います。

それまでの私は、とにかく自分のイメージが最優先でした。
こういうクラスにしたい、こういう子どもたちにしたい、こういう授業をしたい、こういう教育をしたい…、などなどの目ざすべきイメージが最優先で自分の思いが強すぎだったのです。

具体的には、以前にも少し書きましたが次のようなことです。
子どもたちが自主的にどんどん活動できるクラス。
当番や係活動はもちろん、学校生活全般において積極的に生き生き活動できるクラス。

 集団行動も協力して素速くできる。
みんなで並ぶときはさっと並べる。
体育の準備や後片付けも協力しててきぱきできる。
合唱練習ではみんな生き生きした表情で一生懸命歌う。

生活習慣もしっかりしている規律あるクラス。
何事にもけじめがついてメリハリのある活動ができる。
発表がたくさんできて活発な授業ができるクラス。
などなどです。

これははっきりいって「教師の欲」なのです。
これによって、教師としての自分の評価を高めたいという気持ちがあるからです。
でも、「教師の願い」という美名で呼ぶことでその真実を隠しています。

つまり、「先生のクラスは子どもたちがとても自主的で、協力もよくて雰囲気がいいですね。
先生の指導力はすごいです」などの言葉が欲しいのです。

同僚たちからのこういった言葉は教師にとって蜜の味です。
場合によっては、子どもや親から「いい先生だ」と言われるよりもうれしいかもしれません。

これは、私だけでなく教師にはみんなあると思います。
人によってその度合いは違いますが、全くない人はいないはずです。

これは、よく考えてみると、教師である自分の自己実現のために子どもたちを利用しているということです。
子どもたちを手段にしてしまうことです。

もちろん、純粋に子どものためを思う気持ちもあります。
でも、同時に自分のためという部分も非常に大きいのです。

この欲は教師の仕事につきまとうがん細胞のようなものです。
うっかりしているとどんどん大きくなります。

教師の多くはこの自分の内なる事実を見ようとしません。
子どもたちのためだ、教育のためだという錦の御旗で正当化してしまっています。
私も全くそうでした。

真に子どもたちのためになるよき教師であるためには、このような自分の内なる事実をしっかり見ていて、常に気づいている必要があります。

そして、自分のためという部分が増殖することを警戒していることが大切です。
もちろん、これを全くゼロにするのは難しいと思います。
悟りを開いた人でないと無理でしょう。

でも、ゼロにするのは難しくても、限りなく少なくしていく努力は絶対に必要です。
私は2年間の苦しい日々を経て、ようやくこのことに気づきました。

これから教師を目指す方々にも、ぜひ、このことを頭に入れておいて欲しいと思います。
常に、自分の内側をよく見ていて、「これは自分のためではないのか?」と問いかけるようにして欲しいと思います。

さて、このようなことに気づいてから、私は仕事のやり方も変えました。
それまでも、いろいろな働きかけや工夫をしていたのですが、それは全て自分のイメージ実現のためのものでした。

そうではなく、もっと子どもたちの気持ちや願いを理解して、子どもたちの目線で働きかけや工夫をしていこうと決意したのです。

そう決意して、初めて気づいたことがあります。
それは、子どもたちはみんな「叱られたくない。
毎日明るく楽しく過ごしたい」と強く願っているということです。

一人の例外もなく子どもたちはみんなこう願っています!これが実に子どもたちの最大の願いなのです。

それに気づいたとき、自分でも驚きました。
今までこんな当たり前のことがわからなかったのか、と。

これは私にとってコペルニクス的転回でした。
これに気づいたことで、私の教育観は180度変わりました。

子どもという立場は極めて弱いものです。
子どもにとって教師も親も絶大な権力を持つ支配者であり、往々にして暴君ですらあります。

親や教師の気ままで理不尽な言動にいつも振り回され、その顔色をうかがいながら生きているのが子どもです。

子どもが楽しい気持ちで学校に来ても、教師の気分次第でそれが台なしになることがよくあります。
毎日そうなっている子どもたちもたくさんいます。

このことに初めて気づいた私は、子どもたちの「叱られたくない。
毎日明るく楽しく過ごしたい」という願いの実現に向けて工夫することにしました。

具体的にいうと、「叱らない環境とシステム」を作ることにしたのです。
これは、子どもたちが無理なく自然にできるような環境とシステムを工夫することで、こちらが叱らなくてもいいようにするということです。

家庭でも学校でもそうですが、親や教師は毎日同じことで子どもたちを叱っています。
私の実感だと、ほぼ90パーセントはいつも同じことです。
全く違うことで叱られるということは少ないのです。

これはその子自身の問題だけでなく、家庭やクラスの環境とシステムにも問題があるからです。
つまり、子どもたちは叱られるパターンに追い込まれているという面もあるのです。

具体例を挙げます。
私は、子どもたちに毎朝8時までに教室の前にある台に宿題を出させ、出したら名簿に丸をつけるようにさせていました。

ところが、クラスにはいろいろな子がいますのでたったこれだけのことでも全員がしっかりできる日は少ないのです。

それで、朝の会のときに私がその名簿を見ながら確認をしていました。
「はい、○○君と□□さん、立ちなさい」「はい」

「あなたたちは書き取り帳が出ていませんね。
なんで出さないんですか?ちゃんと出さなきゃだめでしょ。
他の人はみんな出していますよ。
宿題やってきてないんですか?」「あ、ぼく出し忘れてました」

「やってあるならちゃんと出さなきゃダメでしょ!」「はい…」「□□さんはどうしたんですか?やってあるんですか?ないんですか?」「やってきたんだけど出すのを忘れました」

「なんであなたはいつもそうなんですか?これで3日連続ですよ」「すみません」「朝宿題を出して名簿に丸をつける、たったこれだけのことがなんでできないの?」「…」

「毎朝毎朝同じことで叱られて。言ってる方だって嫌なんですよ。言いたくて言ってるんじゃないんですよ。言う方も嫌な気持ちになるんですよ」「…」

「聞いてるみんなだって嫌な気がしますよ。しっかり出している人たちまで、みんなあなたのせいで嫌な気持ちになってるんですよ」「…」

そして、私が「明日からちゃんと出しなさい!!」と叱りつけ、子どもが「はい」と答えて、ようやく終わりです。

人間は一度感情的に話し出すと止まらないということがあります。
振り上げた拳の持って行き場がなく、長々と叱りつけることになります。
特に相手が子どもだとブレーキがかかりにくいのです。
教師はよくこのパターンに陥ります。

朝からこんな感じなのですから、子どもたちはたまったものではありません。
クラス全体がどんよりした嫌な感じになるのも当たり前です。

今だったら「言うのが嫌なら言わなくていいように工夫したら?」と過去の自分に突っ込みを入れたいところですが、当時はそういう発想は全くありませんでした。

その揚げ句に私は子どもたちから「ノー」を突きつけられたわけですが、猛反省してからは、この叱ってしまうパターンを変えよう、そのために「叱らない環境とシステム」を工夫しようと思ったのです。

初出『教職課程』(協同出版)2012年12月号

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