子どもたちとの人間関係が崩れている中で、5年生から6年生に持ち上がった私でしたが、その後の一年間はやはり辛い一年間でした。

6年生の場合、クラスのことだけやっていればよいというわけではありません。
例えば、学校中を動かしていくための委員会活動がすぐに始まります。

続いて1年生を迎える会や縦割り活動なども始まります。
そして、運動会、修学旅行、音楽会などと続きます。

担任と子どもたちがうまくいっていないクラスが、こういうときによい動きができるはずがありません。

私のクラスは、万事において6年のほかの2つのクラスの後ろをやっとついていくという状態でした。
授業もよい授業などできるはずがありません。

そんな中、追い打ちをかけるように私は病気になってしまいました。
きっかけは8月の下旬、つまり夏休みの後半のことでした。

私は年休を取って女房と一緒にマイカーで九州に旅行に行きました。
なんとか1学期が終わり、たまったストレスを解消して2学期に備えようという気持ちでした。

静岡から東名高速道路で名古屋まで行き、その後は確か中国自動車道を通って関門海峡を渡り、九州に入りました。

博多の街中を運転したときは、強引な割り込みの多さに肝をつぶした覚えがあります。
静岡県で運転しているときとはかなり違うと感じました。

次に長崎のハウステンボスに、そしてその次は西南戦争の激戦地である熊本県の田原坂に行ったことを覚えています。

ところが、田原坂に行った日の夜、宿に着いたらひどい寒気がしてかなりの高熱が出ました。
自分でもこれは普通の熱ではないと感じました。

長崎のハウステンボスや田原坂で熱い日差しの中を歩き回ったので、日射病になったのだと思いました。
しかも、帽子もかぶらずに歩いていたのです。

それで、旅行の予定は後2,3日残っていたのですが、全て取りやめて翌日帰路につくことにしました。
女房の運転で静岡まで帰ることにしたのです。

途中、小倉の病院で点滴をしてもらったのを覚えています。
無理に帰るより病院に入院した方がよいのではないかという気持ちもありましたが、とにかく帰ることにしました。

帰る途中の車の中でも苦しくて、本当に長い道のりに感じられました。
ずっと運転していた女房も大変だったと思います。

そして、やっと家に帰り着いて地元の総合病院に行ったら即入院ということになりました。
病名は咽頭炎で、なんとこれは私が新採のときにかかって入院したのと同じ病気でした。

でも、今回はそのときと比べてもはるかに重症でした。
体が衰弱しきっていて、病院に入院してからも何一つ食べることができませんでした。

食欲は全然ありませんし、無理に食べても胃が受け付けませんでした。
それで、ずっと点滴で栄養を取る日々が続きました。

何より困ったのが小便がうまく出ないことです。
膀胱が満タンでパンパンなのはわかるのですが、自律神経がおかしくなっていたのか、なかなか出てくれないのです。
これは本当に苦しかったです。

とにかく体中がだるくて、とくに足が重くてだるい感じで辛かったです。
身の置き所がない、足の置き場所がないという感じです。

毎日やってくる夜が非常に長く感じられました。
「この苦しい状態がいつまで続くのか?」と、夜中に病室の天井を見ながら暗澹とした気持ちになったのを覚えています。

はっきり覚えていませんが、入院して1週間くらいは何も食べられなく、点滴で過ごしていたと思います。
その後初めて食べられたのがカップに入ったバニラのアイスクリームでした。

他の物は食べる気がしなかったのですが、これなら食べられそうな気がして口にしてみました。
すると、口の中ですっと溶けて、噛まなくてもいいので楽に食べられました。

長い絶食の後でしたから、非常においしく感じられました。

そして、他の物も食べようとしてみてたのですが、食べられませんでした。
バニラのアイスクリームだけ大丈夫だったのです。

その後、何日かずっと点滴と平行して毎日バニラのアイスクリームを食べていたと思います。
その後、少しずつ他の物も食べられるようになりました。

でも、8月が終わって9月になっても退院することができず、そのまま入院し続けました。
クラスのことが心配でしたが、どうしようもありません。

もともとひどいクラスがさらにひどくなるのは目に見えていました。
でも、どうしようもないのです。

9月から臨時の先生が入ってくれれば少しは安心できたのですが、それも叶いませんでした。
ですから、6年の2人の先生が私のクラスも面倒見ることになりました。

9月下旬の運動会に向けて一緒に練習する機会が多かったので、「ちょうどよい」と言ってくれましたが、2人の先生たちはかなり大変だったと思います。

はっきり覚えていませんが、私はたぶん3週間くらい入院していたと思います。
その後やっと退院できるようになったのですが、すぐ学校に行ける状態ではないと言われました。
それで、自宅療養を1週間することになりました。

自宅療養が終わって、9月下旬のある日、残暑の厳しい中で久しぶりに学校に行きました。

学校について車から降り、校舎の横を歩いていたとき太陽が照りつけてくるのがわかりました。
手をかざしながらぎらぎらした太陽を見上げた自分を覚えています。

そのとき、校舎の中から運動会の歌を練習する子どもたちの声が聞こえてきました。
それを聞いて、学校中が運動会に向かって練習を続けてきたのだということを感じました。

そんな中、私だけ病院や自宅で寝ていたのです。
私は自分一人だけ取り残されているような気がしました。

ちょっとした浦島太郎の状態です。
子どもたちや先生たちと顔を合わせるのが、非常にばつが悪いような気がしました。

久しぶりにあったということで子どもたちが歓迎してくれるならともかく、そんなことはあり得ません。

もともと子どもたちとの信頼関係は崩れていて、嫌がられているのがわかっていました。
その上、大切な時期に長期間子どもたちを放って置いた私です。
いまさらどんな顔をして教室に入っていけばいいのでしょう? 

その後どうなったかは覚えていません。
その年の運動会のこともよく思い出せません。
運動会の次に修学旅行に行ったはずですが、それもあまり覚えていません。

それどころか、その年の残りの日々のことがよく思い出せないのです。
人間は思い出したくないことは忘れるようにできているのでしょうか?

いくつか断片的に覚えていることがあります。
1つは、図工で絵を描く時間をたくさん取ったことです。
絵を描いている間は子どもたちがよく集中しているので、私も救われるような思いだったのだと思います。

6年生の最後はたしか人形劇に取り組ませたと思います。
何か楽しいことに熱中させることで、なんとか時間稼ぎをしたいという感じだったと思います。

このようにして1年が終わりました。

「子どもたちとの人間関係が崩れたまま終わりたくない。
もう一年かけて子どもたちとやり直したい。
よい人間関係を取り戻したい」。
こういう思いで持ち上がった私でしたが、結局それはできないまま終わってしまいました。

この2年間は今思い返しても痛恨の極みです。
子どもたちには本当に申し訳ないことをしました。

時間を巻き戻して5年生の4月から、つまりゼロからやり直せたら、どんなにありがたいことか…。
何度そう思ったか知れません。

「こういうことはもう絶対しない。
こういう言葉はもう絶対使わない。
そうでなくこうして、ああして…」。
二度と愚かなことをくり返さないために、私はとことん反省しました。

初出『教職課程』(協同出版)2012年11月号

親野智可等のメルマガ
親野智可等の本
遊びながら楽しく勉強
親野智可等の講演
取材、執筆、お仕事のご依頼
親野智可等のお薦め
親野智可等のHP