5年生を受け持ったとき、叱りすぎて子どもたちとの人間関係がめちゃくちゃになってしまった私でしたが、6年生への持ち上がりを決意しました。

両隣が持ち上がるのに自分だけ持ち上がらないなんてことはできない。
このまま終わりたくない。
もう一年掛けて子どもたちとやり直したい。
いい人間関係を取り戻したい。
このような気持ちでした。

そして、私たちの希望は受け入れられ3人とも持ち上がることになりました。
でも、私は複雑な気持ちでした。
「果たして大丈夫か?」という不安を抑えることができないまま、憂鬱な春休みを過ごしました。

両隣のクラスでは、春休みに子どもたちが先生に会いによく学校に来ました。
用事もないのに先生に会いに来るのです。
そして、楽しそうにおしゃべりして帰って行きます。

来年は受け持ってもらえないかも知れないと感じ、少しでも長く一緒にいたいので会いに来るのです。
私のクラスではそんな子は一人もいませんでした。

この辺りの子どもたちの気持ちと行動はとても素直です。
1年が終わり担任の権力がなくなったとき、子どもたちの極めて素直な気持ちが表に出ます。

一年間自分を大切にしてくれた先生、教師としての欲や都合より子どもの気持ちを大切にしてくれた先生、そういう先生に対して子どもたちは親愛と敬意をもって接します。
その反対の場合は反抗や無視ということになります。
子どもたちの見る目は確かであり決して侮れないものです。

子どもたちには大人のような気配りや社交辞令はありませんので、これほど的確な評価者はいません。
先生たちの一年間がここに物の見事に表れます。
権力関係がなくなったときの子どもたちの態度、これは先生たちが受け取る成績表のようなものです。

そして、憂鬱な春休みが終わり、さらに憂鬱な新年度が始まりました。
その最初の日、学校中の子どもと先生たちが体育館に集まり始業式が始まりました。

まず、校長先生のお話があり、次に新しく学校に赴任してきた先生たちの紹介、続いて転入生の紹介です。

そして、その次は始業式のメインイベントである担任発表です。
校長先生から新しい担任の先生が発表されるその瞬間は、子どもたちにとって一番緊張する瞬間です。

それは子どもたちの一年の運命が決まる瞬間なのです。
どんな先生に受け持たれるか、それによって子どもたちの一年間は大きく左右されます。

明るく楽しい一年になるのか? それとも暗く苦しい一年になるのか? それはどんな担任かによってほぼ決まります。

子どもたちもそれをよく知っています。
「○○先生がいいなあ」「どうか○○先生じゃないように。神様、お願いします」。
そんな祈るような気持ちで子どもたちは発表を待っています。

担任の先生は、低学年から順番に発表されていきます。
「○年○組は○○先生です」
「やった~!」
「□年□組は□□先生です」
「え~っ!」

子どもたちの反応はとても正直です。
これは一年でただ一度、子どもたちが先生を直接かつ大っぴらに評価できる唯一の機会なのです。
これも先生たちの成績表です。

「やった~!」「わ~い」「ラッキー」と言ってもらえればうれしいものです。
やる気も大いに高まります。

逆に、「え~っ!」「うわ~」「あ~あ」などと言われれば、正直つらいですしかなり凹みます。

子どもたちにすごく好かれている先生の場合、「やった~」という大歓迎が上がるのですが、よく注意しているとその声と共に「え~っ!」というがっかりした声も同時に聞かれます。

「え~っ!」という声を出すのは、ほかのクラスの子どもたちです。
つまり、「○○先生を取られちゃった」という気持ちです。

この逆もあります。
つまり、子どもたちにものすごく嫌がられている先生の場合、「え~っ!」という声と共に「やった」という声も聞かれます。
これは、ほかのクラスの子どもたちが「やった。これで□□先生に受け持たれることはないんだ」というホッとした声なのです。

低学年の子どもたちの反応は比較的穏やかですが、学年が上がるに連れて反応が大きくなっていきます。
5,6年生ではかなりはっきり反応するようになります。

5,6年生の子どもたちは、すでにいろいろな先生を知っていて比較できるからです。
それに、子ども同士の情報のやり取りもかなり進んでいて、どの先生がどういう先生かということもよくわかっています。

こんな中で、私は生きた心地がしませんでした。
私の名前が呼ばれたとき、クラスの子どもたちがどんな反応をするか心配でならなかったのです。

そんな私の気持ちにお構いなしで、その瞬間はだんだん近付いてきました。
そして、私の隣のクラスの先生が発表されました。

校長先生が「6年1組、○○先生」と言った瞬間、「やった~」という大歓声が上がりました。
そのクラスの子どもたちは、みんな大喜びで盛り上がっています。
中には喜びのあまり泣き出す子もいたほどです。

担任の先生も「はい!」と元気いっぱいの返事をしてにこにこしていました。

そして、とうとう私の番です。
私はその時の情景を生涯忘れないと思います。
「6年2組、杉山先生」と私の名前が呼ばれた瞬間、体育館がし~んとなりました。
水を打ったような静けさです。

子どもたちの反応は想像以上に冷え切ったものでした。
「やった~」「きゃ~」と喜ぶ子など誰一人としていません。
それどころか「え~っ!」という声すら出なかったのです。

「え~っ!」などと言えば後で私に何を言われるかわかったものではない、と考えたのかも知れません。
あるいは、6年担任を発表する時点ではもう残っている先生は数人しかいませんでしたので、子どもたちは事態を悟って既にあきらめがついていたのかも知れません。

先ほどのクラスとのあまりの違いに私は凍りつきました。
「はい…」と蚊の鳴くような声で返事をしてポーカーフェイスを装いましたが、内心は居たたまれない気持ちでした。
このまま立ち去ることができたなら、どんなにうれしいことか・・・

そういう私の気持ちなどお構いなしで、さらに続けて次のクラスが発表されました。
校長先生が「6年3組、□□先生」と言った瞬間、またもや「やった~」「きゃ~」という大歓声が上がりました。

6年1組の時に勝るとも劣らない大歓声です。
友達と抱き合って喜んでいる子もいます。
担任の先生も、満面の笑みで「はい!」と返事をしました。

喜びに溢れて笑顔いっぱいで大いに盛り上がる両隣のクラス。
その間で無表情に静まりかえる私のクラス。
担任と子どもが共に絶望に沈む私のクラス。

全て私自身が蒔いた種とはいえ、厳しすぎる現実でした。
この情景は忘れられません。
これから長い一年間が始まるというこのときに、子どもたちから完全にノーを突きつけられたのです。

しかも、6年生と言えば、運動会、音楽会、1年生を迎える会、縦割り活動、委員会活動などのいろいろな行事で、常に学校中の先頭に立って動いていかなければならない学年です。

本当にやっていけるのか? 私が持ち上がるより、別の先生に受け持ってもらってまったく新しい気持ちで再スタートさせてあげた方がよかったのではないか? すでにこのとき、持ち上がったことを悔やまざるを得ませんでした。

本当に、こんな状態で持ち上がること自体が、子どもたちの気持ちを考えていない教師の自己中心的な考えそのものだったのです。
でも、当時はそんなことすらわからない状態だったのです。

初出『教職課程』(協同出版)2012年10月号