今回は授業について書きたいと思います。
連載の4回めにも書きましたが、教師になって授業で一番困ったのは国語でした。

国語は算数、理科、社会のように教えることがはっきりしていないからです。

これは私だけでなく多くの先生たちが感じていることだと思います。
若い先生たちはもちろんのこと、けっこうベテランの先生でもそう感じている人は多いはずです。 

国語の授業ではまず教材になる文章を読んで、新しく出てきた漢字を勉強して、難語句の意味調べをします。
そこまではいいのですが、そのあと何をどうすればいいのか当時の私はさっぱりわかりませんでした。

それで先輩たちに教わったり授業を見せてもらったりしました。
当時、私が勤めていた学校でもその周辺の地域でも、国語というと「書き込み」と相場が決まっていました。

書き込みとは、教科書の文章の行間にそこを読んで思ったことや感じたことを書いていくことです。

たとえば、「ごんぎつね」で「ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。」というところには、「ぼくには家族がいるけどごんはたったひとりでさみしいね」などと書いていくのです。

まず個々の子どもに自分の教科書への書き込みをさせて、そのあとそれを発表し合います。
でも、ただ書き込んだことを発表させるだけではみんなてんでんバラバラに思ったことを言うだけで終わってしまいます。

そこで、熱心な先生は個々の子どもが書き込んだ内容を発表の前に把握しておきます。
そして、授業では、子どもたちの発表内容が有機的にうまくつながっていくような順番で指名します。
これが腕の見せ所です。

また、子どもたちにも、自分が話したいことだけ話すのではなく前の子の発言に関係づけて話すように指導します。

この授業が下手な先生だと子どもたちの発言がまったくつながりませんが、上手な先生だとうまくつながって盛り上がっていきます。

周りの先生たちがほとんどみんなこの書き込みの授業だったので、私も国語の授業というものはこういうものだと思い、同じようにやり始めたわけです。
でも、ぜんぜんうまくいきませんでした。

もちろん技術的に下手だからうまくいかないのですが、それだけではないように思いました。
なんとなくこのやり方が自分にしっくりこない感じがしていました。
授業していて楽しくないのです。

それで、私は国語の授業に関する本をいろいろ読み始めました。
すると、世の中には実にいろいろな国語の授業方法があることがわかってきました。

たとえば文芸研、科学的読みの授業、読み研方式、一読総合法、子どもたちが問題を作る授業、朗読や群読を取り入れた方法、討論を重視する方法、単元学習、分析批評などです。

指名の仕方にしても、挙手・指名、子ども司会、リレー発言、自由発言、ディベートなどいろいろあります。

そして、私の周りで盛んに行われている「書き込み」というやり方は一読総合法の理論から生まれた1つの方法だということもわかりました。
つまり、数ある方法の中の1つに過ぎないということがはっきりわかったのです。

国語の授業法は他にもあるんじゃないかとうすうすは感じていましたが、はっきりわかったことは大きなことでした。
というのも、これによって自分に合った方法を探したり考えたりする道が開けたからです。

それまでは視野が狭すぎて、そういう発想すら持てませんでした。

そして、ちょうどこの頃、校内のある男の先生が国語の公開授業でちょっと変わった授業をしました。
それは、見慣れた書き込みではなく、文芸研の教材解釈による読解と群読を組み合わせたような授業でした。

この授業は私にとってとても新鮮でしたし、内容が濃くてよい授業だと感じました。

でも、授業のあとの事後研修はあまり盛り上がりませんでした。

というのも、書き込みのあとの話し合いをうまく組織する力を磨くのが国語の研修だと思い込んでいる先生たちがほとんどだったので、みんなこの授業に興味が持てなかったのです。

ですから、「ふ~ん、ちょっと変わった授業だったね」という感じで終わってしまいました。

この件だけでなく、私は教師をしていてずっと感じていたのですが、先生たちはいろいろな面で特定の思い込みに支配されていることが多いと思います。
今の言葉で言えばバイアスに支配されているのです。

たとえば次のような思い込みです。

自由発言の授業をする先生は力がある。
問題解決の授業こそ最高だ。
教科書を使わない授業がよい授業だ。
イヤ、教科書に沿った授業がよい授業だ。
ノーチャイムこそ自主性を育てる。

つまり、ある地域に支配的な思い込み、特定の方式や理論への思い込み、有名な先生の手法を絶対視する思い込み、そのときどきの指導のブーム、などなど、思い込みが無限にあるのです。

今のように情報が多い時代に、地域特有な思い込みがあるというのも不思議なことですが、実際にあるのです。
どの地域にも影響力のある指導的立場の先生がいて、その先生の理論や実践が地域の研修会を通して浸透しているからです。

それが思い込みに過ぎないということは、その中にどっぷり浸かったままでいるときはわからないものです。
そこから抜け出して自分が納得できる授業・教育をしていくためには、2つのことが大切です。

まずは自分自身で幅広く勉強することであり、次には自分に合った方法を見つけて深めることです。
これは国語の授業に限らず、すべてにおいていえることです。

そのためには、自分のお金と時間を投資することが必要です。
本、雑誌、ネットなどで学んだりすると同時に、全国規模の研究会に出たり自分の都道府県以外の学校の公開授業を見に行ったりしてほしいと思います。

本や雑誌を読めばいろいろな指導法を知ることができます。
授業の具体的な進め方はもちろん、その指導法がどのような理念から生まれ、どのような経緯で発達し、現在の到達点はどうなっているのか、などもわかります。

こういったことを知っているとただ表面的に真似するだけでなく、自分で根本から考え直して新しいものをつくっていくこともできます。
こういうことが大切なのです。

全国規模の研究会に参加したり、自分の都道府県以外の所に出かけていって実際の公開授業を見たりするのもたいへん勉強になります。
特に著名な先生の授業はできるだけ見ておくといいでしょう。

その際は、知性と感性を総動員してありったけの栄養を吸収してください。
すばらしい授業をする一流の先生はやはりどこか違います。

独特の雰囲気と圧倒的な存在感がありますし、誰よりもキラキラ輝いています。

その表情と立ち居振る舞い、子どもとの接し方、声のトーン、話し方、歩き方、すべてが勉強になります。

そういったことは本を読んでもわからない部分です。
文字情報にできない生の情報が得られて、それらのすべてがその先生のすばらしい授業を支えていることがわかります。

そして、自分もこのようなすばらしい授業ができる先生になりたいという気持ちに火がつきます。
これが実に大きなことなのです。

著名な先生の授業を見て、ときには「えっ、これが?」と感じることもあります。
それもまた勉強になります。
私も若い頃、非常に多くの本を出している超有名な先生の授業を見て、「えっ?」と思ったことがあります。

それで、「著名ならすばらしい」というわけでもないということがわかりました。
裏を返せば、著名でなくてもすばらしい授業をする先生もいるわけで、いろいろ見ているうちにこういうことも実感としてわかってきます。

初出『教職課程』(協同出版)2012年7月号

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