次の一節の最後の言葉は、震えが来るほど好きです。
論語全巻の中でも、一番好きな言葉の一つです。

また、貝塚茂樹氏はこの言葉のことを次のように言っています。
「『論語』全巻の根本の原理を述べたことばとして重要視されている。」

子曰わく、参(しん)よ、吾(わ)が道は一(いつ)以(もっ)てこれを貫く。
曽子(そうじ)曰わく、唯(い)。
子出(い)ず。
門人問いて曰わく、何の謂(いい)ぞや。
曾子曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。

先生が曽子をよんでいわれた。
「参(しん)よ。自分の道は一本を通してきたのだぞ」
曾子がこたえた。
「わかりました」
先生が座を立たれたあとで、門人がたずた。
「大先生のおっしゃったのはどういう意味ですか」
曽先生がいわれた。
「先生の道は忠恕(ちゅうじょ)、つまりまごころ思いやりとにほかならないのだ」

                (中央公論社の中公文庫「論語」貝塚茂樹訳注より)

貝塚茂樹氏によると、忠とは「自己の良心に忠実なこと」、つまり「まごころ」です。
そして、恕とは「他人の身になってみて考える知的な同情」、つまり「思いやり」です。
そこで、「忠恕」とは「まごころと思いやり」ということになります。

孔子の教えは仁、礼、徳、信、孝悌など様々なキーワードで展開されています。
そして、論語は大部の書物であり、孔子はありとあらゆる方法で道を説いています。
時には、儀式の進め方や喪の服し方について、細かに述べたりもしています。
ですが、その全ての根本にあるのが、まごころと思いやりだと断言しているのです。
これがなければ、孔子の壮大な大系も無に帰するのです。

つまり、ここで、孔子は人間にとって一番大切なのはまごころと思いやりだとはっきり断言しているわけです。
「のみ」という強い断定が、それを表していると思います。
まごころと思いやりがなければ、儀式を正しい手順で進めても意味はありません。
まごころと思いやりがなければ、表面上は正しい喪の服し方をしていてもむなしいものです。

このことは、孔子が生きた2500年前も21世紀の現代も変わらないはずです。
また、孔子は主に政治家の在り方について話しているのですが、子供の教育についても完全に当てはまります。

親や教師はいろいろなことを子供に教えます。
躾をし、勉強を教えます。
基本的生活習慣を身に付けさせ、健康な生活の仕方を教え、人間関係の作り方を教えます。
国語で文字の読み書きを教え、算数で計算のやり方を教え、図工で絵の描き方を教え、体育で運動の仕方を教えています。

しかし、その根本にまごころと思いやりを教えなければ、全てはむなしいものになってしまいます。
躾がきちんとされていても、ずるい人間ではどうしようもありません。
勉強だけできても、人を思いやれないような人間ではどうしようもありません。

そして、一番大切なまごころと思いやりを教えるためには、教える本人がそうでなければなりません。
教える本人が、身を以て手本を示さなければなりません。

権力的立場にあぐらをかき、上から目線で子どもを叱り続けるような親や先生は、子どもにまごころと思いやりを教えることはできません。

ですから、この言葉は、教え手である私たちがいつも念頭に置くべき言葉なのです。
親や教師が、常に己に投げかけるべき言葉なのです。

「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」
そうです。
一番大切なのは、まごころと思いやりです。
まず、私たちがそうでなければなりません。
これを以て、子供たちに相対しましょう。
親野智可等のメルマガ
親野智可等の本
遊びながら楽しく勉強
親野智可等の講演
取材、執筆、お仕事のご依頼
親野智可等のお薦め
親野智可等のHP