論語の次の一節は、教師も親もよくよく噛みしめるべき言葉だと思います。
その実行に努める人には、自然に教育的感化力が備わってくるはずです。

ここには教育や人間関係の要諦が秘められています。

子温而勵、威而不猛、恭而安

子は温(おだ)やかにして勵(はげ)しく、威(い)あって猛(たけ)からず、恭(うやうや)しくして、安(やすらけ)し

先生はおだやかであられながら、厳しいところがあり、威厳があられながら、あらあらしくなく、慎みぶかいところがあられて、固苦しくなかった。

                                (中央公論社の中公文庫「論語」貝塚茂樹訳注より)

「温(おだ)やかにして勵(はげ)しく」というのは、平たくいえば「優しくて厳しい」ということです。
なぜ孔子の弟子たちは、わざわざ論語の中に、孔子がこういう人だったということを書き留めたのでしょうか?
それは、この「優しくて厳しい」がいかに難しいかということを彼らが実感していたからに違いない、と私は思います。
そうでなければ、わざわざこれを論語に入れるはずがありません。

私も、日々教室で、「優しくて厳しい」を実行することの難しさを感じています。
「優しくて厳しい」は、私の最大のテーマの一つです。
いえ、私だけでなく、子供に接する大人にとって常に最大のテーマの一つであるはずです。さらにいえば、上司と部下、さらに一般の人間関係の全てに当てはまるものでもあります。

例えば子供が算数ノートを忘れたとき、私は次のようにしています。
まず、次の日の予定の持ち物欄に「算数ノート」と書いて次の日には必ず持ってくるようにさせます。
それと同時に、忘れ物欄にも「算数ノート」と書いて本人の反省と自覚を求めます。
また、忘れ物欄に書くことで親にも注意を促すことができます。
市販の予定帳にはその欄がないので、手作りの物を印刷して使っています。
そして、予定を見て仕度をしたらそこに丸を付けることにしてあるので、それを必ず実行するように指示します。
さらに、もし忘れ物が続く場合には、その原因を探ってそれに応じた指導をします。

これら必要なことを確実に行いますが、余分なことをやりすぎることはありません。
余分なこととは、感情的になって子供を不必要に叱ったり、理不尽な罰を与えたりすることです。
厳しさとは、必要なことを落ち着いて確実にすることです。
感情的になって、不必要に叱ったり理不尽な罰を与えたりすることではありません。
こういうことをすると、子供は心の中で決して納得しません。
当然、そういう人のことを、優しいとは思ってくれません。

上司と部下という大人の関係で考えれば、よく分かると思います。
部下が失敗したときに、上司はそれを改善するために必要なことを確実にすればそれでいいのです。
不必要に叱ったり、理不尽な罰を与えたりすれば、部下は納得しません。
その上司は「優しくて厳しい」の反対の評価をされるはずです。

家庭における親と子供の関係でも、ことは同じです。
ルールを明確にしておいて、それを確実に実行することが厳しさです。
これなら子供の納得を得られます。
感情的になって不必要なことや理不尽なことをしないように心がけながら、確実にそれを実行することができれば、「優しくて厳しい」は誰でも実現できるのです。

孔子はこれができた人だったのだと思います。
だから、多くの弟子たちが納得して付いていったのです。
家庭でも同じで、要は子供が納得するかどうかです。

次の「威(い)あって猛(たけ)からず」というのは、訳文の通り「威厳があってあらあらしくない」ということです。
私は、大人と子供との関係では、大人の側にある程度の威厳が必要だと思います。
教師と子供でもそうですし、親と子供でもそうです。
教師が全く子供と同じところに立ってしまういわゆる友達先生では、指導力を発揮することはできません。
無理に従わせようとする場合、声を荒げなければならなくなります。
つまり、「あらあらしく」しなければならないのです。
親にしても同じです。

では、大人の威厳とはどういうことでしょうか?
1つには、子供に仰ぎ見られることです。
つまり、子供にとって尊敬できる存在であるべきだということです。
子供に心の中で見下されていては、何を言っても効果はありません。
1つには、子供を心服させることです。
つまり、子供が心で納得して従うことができるような存在であるべきだということです。
きつい言葉や力で従わせるのは、そのときだけの表面的な服従に過ぎません。

大人の威厳というと、とても無理だと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
もともと放っておいても、子供にとって大人は威厳のある存在なのですから。
ましてや親ともなれば、食事を与え、衣服を与え、知識を与える存在なのですからなおさらです。
ですが、余分なことをしてしまうから、威厳がなくなってしまうのです。
それは、先程もいった「感情的になって、不必要に叱ったり理不尽な罰を与えたりすること」です。
つまり、「あらあらしく」することです。
大人が威厳をなくす理由は、まさにこれです。
ほとんどの大人が、これで自ら威厳を損ねているのです。

このメルマガで何回もいっていますが、感情的な爆発をする人には威厳などあり得ません。
そういう姿を見せた後、その人の価値評価は格段に下がります。
イライラしたりカッとなる親は、絶対に子供に尊敬されません。
そういうことを繰り返していると、子供を心から従わせることは不可能になります。

このようなことに気を付けて、大人が自分のやるべきことをしっかりやっていれば、それで十分大人としての威厳は保てるのです。

最後の「恭(うやうや)しくして、安(やすらけ)し」というのも、とてもいい言葉です。
「恭」というのは、「恭しい」「慎み深い」「礼儀正しくて丁重な」という意味です。
「安」というのは、「安らか」「固苦しくない」「安心させるような」という意味です。
私はこの部分を読んで、一体誰に対して孔子が「恭(うやうや)しくして、安(やすらけ)し」なのかをしっかり読み取るべきだと気が付きました。

つまり、この一文は弟子たちから見た孔子の人柄を言い表したものなのですから、孔子は弟子たちに対して「恭(うやうや)しくして、安(やすらけ)し」だったのだと読み取るべきだと思ったのです。
これは、私の解釈ですが、当たっているのではないでしょうか?
こう読むと、孔子の素晴らしさがより一層際だちます。

目上の者に対して「恭しく」すること、つまり礼儀正しく丁重にすることは誰でもできます。
ですが、孔子は弟子たちに対しても礼儀正しく丁重だったのだと思います。
何千人もいるどの弟子に対しても、対等な一人の人間として心を砕いて接していたのでしょう。
私も教室で子供たちにそのように接っしたいと思っています。
ですが、教師や親が子供に対してこのように接することは、なかなか難しいことです。

なぜ難しいかというと、相手が子供だからです。
相手が子供だから、大人同士では到底できないようなことをしてしまうのです。
相手が子供だから、大人同士では到底言えないようなことを言ってしまうのです。
相手が子供だと、その人の人間性がもろに出てしまうのです。
子供は、私たちの隠された人間性を映し出す鏡です。

ところで、「安」という言葉にも深い意味があると思います。
弟子たちが師である孔子に「安」を感じたということは、どういうことでしょうか?
それは、孔子といると弟子たちが安らかな気持ちになったということです。
情緒の安定している人といると、人は安らかさを感じるものなのです。

また、孔子というと儒教の祖ということで厳格なイメージがありますが、実際はかなり違っていたという説もあります。
ユーモアのある人だったという説もあります。

孔子は、優しくて、しかも納得できる厳しさのある師でした。
尊敬できて、あらあらしいところなど少しもありません。
しかも、弟子たちに対して礼儀正しく丁重でした。
そういう師の元で、弟子たちは安らかな気持ちを感じながら学問や仁の修養に励んでいたのでしょう。
大きな愛に包まれているのを感じていたはずです。

そして、人は安心できる環境があって初めて、人生を前向きにとらえることができるのです。
愛に満たされ、心が安らかであって初めて、優しい心を育むことができるのです。

孔子も人間、私たちも人間です。
一歩でも近づけるようにしたいものです。

次の言葉は、まことに噛みしめるべき言葉ではあります。

子温而勵、威而不猛、恭而安

子は温(おだ)やかにして勵(はげ)しく、威(い)あって猛(たけ)からず、恭(うやうや)しくして、安(やすらけ)し

先生はおだやかであられながら、厳しいところがあり、威厳があられながら、あらあらしくなく、慎みぶかいところがあられて、固苦しくなかった。

(補足・・・「勵」という漢字は、正しくは右側の「力」がない字なのですが、その字を送信することができません。
ワープロソフト上では出るのですが、送信すると「?」と表示されてしまいます。
ひらがなでは雰囲気が出ませんので、似ている漢字を当てました。)

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