みなさんは、次の意見に賛成ですか、それとも反対ですか?

1,学校で勉強する前に知識を得てしまうと、授業内容に興味を持てなくなる。
2,そして、もう自分は分かっているという気持ちから、授業に集中しなくなる。
3,さらに、優越感ばかり育ち、他の子を見下すようになる。

私は、これらの全てに反対です。
私が日々小学校で目にする現実は、ほとんど全てこれらの反対だからです。

例えば、小学3年生で一番最初に電気の勉強をするときのことを考えてみましょう。
その勉強では、まず、豆電球、導線の付いたソケット、乾電池などを使って、豆電球に明かりを付けます。

次に、その回路を少し変化させて、電気を通すものと通さないものを見つけ出すテスターのような物を作ります。
さらに、スイッチを作って、明かりをつけたり消したりします。
このようなことをやる中で、電気の性質について学んでいくわけです。

そして、小学4年生で光電池やモーターも加わってきます。
乾電池の数やつなぎ方を変え、豆電球の明るさやモーターの回り方が変わることなどを学びます。

ところで、この勉強のときいつも感じるのは、子供たちの興味関心や意欲の差がとても大きいということです。
中には、生まれて初めて豆電球やソケットを触る子供たちもいます。
生活科でもこの手の体験や遊びはやらないし、ほとんどの家にはこういう物はないからです。

でも、クラスに何人かは、この手の体験や遊びをやったことがある子がいます。
例えば、学習雑誌の付録でこういうセットが付いてきて、それで遊んだことがある子です。
または、お兄さんかお姉さんがいて、その子が3年生で勉強した物を借りて遊んだことがある子です。
または、書店やおもちゃ屋でそのような知育教材のセットを買ってもらって遊んだことがある子です。

さて、みなさんは、生まれて初めて豆電球やソケットに触る子と、もう何回か遊んだことがある子のどちらがこの勉強に熱心に取り組むと思いますか?

答えは、後者です。
普通は、初めての子たちの方が興味津々で熱心に取り組むと思いがちです。
ですが、実際は、まるで逆です。

一度もこのような物に触ったことがない子たちも、初めての物を手にして最初は喜びます。
ですが、すぐに少し不安になってきます。
何人かの子が、それらの物について訳知り顔で話しているからです。

「この出っ張ってる方が電池のプラスで、反対がマイナスだよ」
「これは、ソケットと言うんだよ。この緑と赤の線の中に電気を通す金属が入っているんだよ」
この時点で、自分はこの勉強について何も知らないようだということが分かるわけです。
友達がはるか先に行っていると感じられるのです。

さて、それらの物を分け終えると、先生はたいてい次のように言います。
「さあ、豆電球とソケットと電池を使って、自分で明かりをつけてごらん」
こう言って、まず、自分の力で明かりをつけさせようとします。
試行錯誤させて、考えさせて、自分でやり方を発見させたいと思うからです。

最初から次のように一から十まで手取り足取りで説明して明かりをつけさせる先生は、まずいません。
「豆電球をソケットに入れてください。次に、ソケットから出ている線を、1つは電池の出っ張っている方につけて、もう1つは反対の方につけてくださいください。」
これでは、子供たちに何一つ考えさせることができないからです。

さて、自分で明かりをつけてごらんと言われたら、経験がある子たちはすぐにつけてしまいます。
初めての子たちは、経験のある子たちのやることを横目で見ながら、なんとか明かりをつけることになるわけです。

ここまでくると、経験がある子たちは、自分は何だか他の子たちよりこの勉強が得意らしいと思い始めます。
初めての子たちは、自分はどうもこの勉強が苦手らしいと思い始めます。

この最初の思いが、子供の学習意欲に大きな影響を与えます。
自分が得意らしいと思った子は、ますます積極的に取り組みます。
そして、どんどん知識を増やし、さらに自信をつけていきます。
最初に苦手らしいと思った子は、そうはいきません。

最初の思いのちょっとした差が、全部の勉強が終わる頃には、大きな成果の差になってしまうのです。

私は、このような例をたくさん見てきました。
それで、私は勝手に次のような仮説を作りました。
「人は、全く知らないことより少しは知っていることを勉強する方が楽しい」
「その理由は、人は何事においても自分と他者を比べるからである」
「そして、得意か否かを他者との比較で決めるからである」

その後、気を付けてみていると、これはいろいろな場面に当てはまることが分かってきました。
例えば、私の知り合いのAさんというが、あるとき急に短歌に興味を持ちました。
それで、カルチャーセンターの短歌講座に通い始めたのですが、2,3回行ってやめてしまいました。
理由は、その講座に来る人たちの多くがかなり短歌に詳しく、自分は付いていけないと感じたからだそうです。

彼は、新聞に出ていた歌人の生き方に興味を持ち、突然短歌に興味を持ったのでした。
ですから、短歌についての予備知識はほとんどありませんでした。
カルチャーセンターの短歌講座は、そんな彼にとっては敷居が高いものだったようです。
彼は、「完全な初心者ばかり集めた短歌講座があればなあ」と言っていました。
そして、自分で短歌の本を読んで、少し勉強してからもう一度挑戦すると言っていました。

私は、この話を聞いて、教室での子供たちの心理に通じるものがあると感じました。
人は、周りの人に比べて自分が遅れていると感じたときに、それを苦手と感じるのです。そして、そういうときは、どうしても意欲がなくなりがちです。
大人なら、ここががんばりどころと考えて、意志力でなんとかしてしまう場合もあります。
でも、子供の場合はそうはいきません。
子供の場合は、本人の気持ちがストレートに意欲や行動に反映されるからです。
自分は苦手らしいと感じて意欲がなくなると、そのままになってしまいがちです。

そして、このようなことは、理科の電池の勉強だけに起こるわけではありません。
大なり小なり、学校の全ての勉強や活動において、起こるのです。
何らかの勉強や活動を始めるときに、それを受け入れる準備が子供の中にどの程度あるかということがとても大切なのです。
それを教育心理学では、レディネスと言っています。

私は、種を蒔く前の土作りに例えて、よく懇談会などで話しています。
家庭で、意識してこの土作りに心がけることを私は強くお勧めします。
ピザやリンゴを切って分けるとき、ほんの少し分数の話をしてやるだけで違います。
算数で初めて分数をやるとき、自分は聞いたことがあるから得意らしいという気持ちになるものです。

旅行に行ったら、その土地の博物館へ行くのです。
そこで、徳川家康の乗った籠を見たとします。
それだけでも、歴史で徳川家康の勉強をするときには、全然意欲が違ってきます。

楽勉カルタで星座の名前や形を覚えておけば、理科で天文の勉強をやるときには大活躍間違いなしです。
タングラムで図形に親しんだ子は、算数の図形の勉強でとても張り切ってやります。
日本地図や世界地図のジグソーパズルで遊びながら県名や国名を覚えた子は、地理の勉強が好きになります。
地球儀も、また、とても優れた楽勉になります。

そして、これらの楽勉でその勉強に自信が持てた子は、授業中意欲的に集中して取り組むばかりではありません。
この子たちは、まだよく分からない子たちに親切に教えてくれます。
なぜなら、この子たちは余裕があるので、他の子たちのことを心配することもできるのです。
ですから、一番最初に挙げた3つの項目の中の「さらに、優越感ばかり育ち、他の子を見下すようになる」というのも、当てはまらないのです。

ですが、ここで勘違いしないでいただきたいことがあります。
私が言いたいのは、学校でやる前に家で勉強させてくださいということではないのです。
そうではなく、家庭の生活や遊びの中の楽しみの1つとして楽勉を工夫してくださいということです。
楽勉ですから、無理があってはいけません。
無理があるならやらない方がいいのです。

ぜひ楽勉を工夫して、いろいろな知的刺激を子供たちに与えてやってください。
ほんの少しのレディネスの違いが、学習成果の大きな違いになってくるのです。

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