ある日の朝の会の様子です。

当番「先生のお話、先生お願いします」
子どもたち「お願いします」
私「はい、当番、ご苦労様。席について下さい」

というわけで、私の朝の話が始まります。
「え~・・・先生は子どものころ・・・」
「やった~!」
「お話が聞けるぞ」

「・・・先生は子どものころ・・・杉山少年でした」(私の本名は、杉山です)
「やった~!」

と、このように始まって、私の少年時代の話が始まるのです。
この日は、運動会が近付いているときだったので運動会の思い出を話しました。

先生は子どものころ、運動が苦手で走るのも遅かったです。
(あっ、おれと同じだ)
それで、運動会の徒競走では、いつも4番か5番か6番でした。
(おそ~っ)
それで、運動会はあまり好きではありませんでした。
特に、徒競走は嫌でした。
その中でも、特に、スタートする前が嫌でした。
スタートする前は、いつもすごくドキドキしていました。
みんな速そうだなとか、このメンバーだとまたビリかビリ2番だなとか考えて、すごくドキドキしていました。
3年生のときの運動会で、こういう状態でドキドキして待っていると、隣に並んでいた子が話しかけてきました。
「ねえ、ねえ、ぼく、走るのがすごく遅いんだ」
「そう?ぼくもだよ」
「じゃあ、2人で一緒に走らない?」
「えっ?」
「1人だけビリになるの嫌だから、一緒に走って一緒にビリにならない?」
「・・・いいよ」
そして、いよいよ、スタートのときがやってきました。
(ドキドキするね)
「位置について、用意、ドン!」
杉山少年は一生懸命に走りました。
横を見ると、あの一緒に走ろうと言ってきた子も一生懸命に走っています。
走って、走って、走りました。
ところが、ところが・・・
そのうち・・・
あれ、あれ・・・
あれあれ・・・
なんと、その子がだんだん前に行ってしまうではありませんか!
なんで、なんで、なんでそんなに速いの?
一緒に走ろうって言ったじゃん!
待って~、こら~・・・
と心で叫んでみても、声にはなりません。
とうとう、杉山少年はビリでゴールイン。
一緒に走ろうと言っていたその子はビリから3番でした。
走り終わった杉山少年は思いました。
いったい、あの約束はなんだったのだろう?
はてな、はてな・・・
なんだか、ぼくってバカみたい・・・

これは、私が子どものころの実話です。
この話は、今までに何回かしてきましたが、いつも子どもたちにとても受けます。
特に、スタート前の緊張しているところや走っていてだんだん遅れていくところの描写が受けます。
そして、最後の「なんだかぼくってバカみたい・・・」のところで、大受けします。

私は、ときどきこのような私自身の物語を話してやります。
子どものころのことや、大人になってからのことや、つい最近のことも話します。
こういう話になると、子どもたちは目を輝かせて聞きます。
それまでは下を向いて手いたずらにふけっていた子も、手を止めて顔を上げて話を聞きます。

先日も、私が電動車椅子利用の人の運転ボランティアと介助を兼ねて、オセロ大会に行った話をしました。
リフトバスに電動車椅子の人を乗せるときの様子やオセロをするときの様子などを、子どもたちは一生懸命に聞いていました。
スーパーにリフトバスを停めようとしたとき、リフトバス専用の駐車スペースが普通の車で埋まっていた話をしたら、一緒になって憤慨してくれました。

高学年を受け持ったときには、中学の部活動の話などが受けました。
そして、それ以上に受けたのが初恋の話でした。

ここではしませんが・・・

では、なぜ、私はこのような私自身の物語を話すのでしょうか?
それは、個人としての物語が、話す人と聞く人の心をつないでくれると感じているからです。
心理学の言葉を使っていえば、自己開示によって親密度を高めることができるからということになります。
つまり、先生も自分と同じ人間だったということが分かることで、ぐっと親しみが増すのです。

私が一人の人間として体験したことや考えたことを話すことで、子どもたちは、先生も一人の人間だということに気が付きます。
それは、いつも、「ああしなさい、こうしなさい」というようなことばかり言っている私の、別の一面です。
子どもたちは、いつもは私の先生という面しか見ていませんが、ここで別の一面を見ることになります。
別の一面を見ることで、その人を立体的に見られるようになります。
今までは、ある一面から平面的に見ているだけでした。
それが、今度は、複数の面から立体的に見られるようになるのです。
立体的に見られるようになって初めて、その人に人間らしさを感じることができるのです。

それによって、先ほども言ったように、今までになかったような親しみを感じるようになります。
でも、それだけではないのです。
もう1つ、大切なことがあります。
それは、一言で言えば、人間のモデルを見ることができるということです。
言い換えれば、生き方のモデルです。
子どもは、大人から人間のモデル、つまり生き方のモデルを見せてもらいながら成長していくものです。
いろいろなモデルを見て、子どもたちはいろいろな影響を受けます。
知らないうちに、いつの間にかまねをしていることもたくさんあります。
いいなと感じて、意識的にまねをすることもあります。
これはダメだなと感じて、こうはなりたくないと思ったりすることもあります。
子どもたちは、いろいろなモデルを見ながら、自分はどう生きていくべきか学んでいるのです。
ですから、生き方のモデルは、子どもたちにとってとても大切な栄養なのです。

このようなわけで、子どもにはたくさんのモデルを見せてやる必要があるのです。
もちろん、子どもたちは、本やテレビなどでもいろいろなモデルを見ています。
でも、やはり、目の前の実物のモデルほどのインパクトはありません。
そして、実物のモデルの中でも取り分け大きな影響があるのが、親です。

ところで、子どもは毎日親を見ているのだから、特に自分の物語をしてやらなくても十分にモデルになっているではないか、と思うかもしれません。
もちろん、そういう面もあります。
毎日見せている親自身の姿は、子どもにとてつもなく大きな影響を与えています。
それは、子どもにとって絶対的といっていいほどのものです。

でも、実はそれだけでは、不十分なのです。
あなたは、まだ、自分を立体的に見せてはいないのです。
というのも、子どもにいつも見せているのは、親としてのあなただけだからです。
あなたの子どもは、あなたが子どもだったころのことを、どれだけ知っているでしょうか?
あなたが小学生だったころ、どんな子どもだったかどれだけ知っているでしょうか?
あなたが職場で何をし何を考えているのか、どれだけ知っているでしょうか?
あなたの生き方について、または、あなたの夢や生き甲斐についてどれだけ知っているでしょうか?
子どもは、ほとんど何も知らないのではないでしょうか。
ですから、私は、このようなことを話してやることが大切だと思うのです。
話してやらなければ分かりようがありません。
ぜひ、あなた自身の人間としての経験を伝えてやってください。
ぜひ、あなた自身の人間としての姿や内面を話してやってください。
それが物語なのです。
物語によって、初めて親が立体的に見えてくるのです。
つまり、一人の人間として見えてくるのです。
一人の人間としてのあなたから、子どもは多くのことを学ぶはずです。
一人の人間としての親の人生は、子どもにとって最大の栄養となり得るのです。
親の経験は、目の前にある生きた実例でありモデルです。
失敗も成功も、あれもこれも、全て栄養です。
それは、生きている文学なのです。
子どもたちは、童話や小説や漫画を読んで生き方について考えます。
また、アニメや映画を見て考えることもあります。
親の物語も、これらに負けないくらいの栄養を与えることができるのです。

親の話が、ほとんどいつも「ああしなさい、こうしなさい」というものでは、子どももいい加減うんざりしてしまいます。
私も教室でこういう話をしながら、子どもたちがうんざりしているのが分かるときがあります。
こういう話は、話し手の満足のためにあるのです。
聞いている方は、たいていうんざりしているものです。

それに、口を開けば、命令、注意、指示、小言・・・というのでは、いくら自分の親でもなかなか親しみが持てないと思います。
親子だから、当然、子どもは親に親しみを持っているはずだ、などと思っていたら大間違いです。
それは、親子ということに甘えているのです。
中には、あまり親に親しみを感じていない子どももいるのです。
親が気が付いていないだけなのです。

子どもたちに必要なのは、分かり切った立前の話ではありません。
いろいろな生き方のモデルを知らせることが、とても大切なのです。
そのために、親の物語はとてもいいものです。
しかも、それは、親子の心と心をつないでくれるものでもあるのです。

ですから、みなさん、今日からぜひ心がけてみてください。
あなた自身の物語を、自分の子どもに語り聞かせてやってください。