突然ですが、みなさんに問題を出します。
ボクシング、野球、ゴルフ、卓球、この4つに共通していことは何でしょうか?


はい、時間です。
正解は、「4つとも、その道で親がわが子を子どものころから鍛えて、そのおかげで大活躍している人が今(2006年9月の時点)メディアで大々的に取りあげられている」ということです。

「○○家の子育て」という形でマスコミに取り上げられ、その教育方法が喧伝されている例もあります。
でも、マスコミは風変わりで面白い部分を強調して取り上げますので、正しく伝わっていない部分も多いようです。

子育て中のみなさんは、眉に唾を付けてよくよく注意している必要があると思います。
中でも一番心にとどめておくべきことは、このように成功している例はほんの一握りに過ぎないということです。

大々的に喧伝されているごくわずかな成功例の陰に、ものすごくたくさんの後悔が渦巻いているということです。
マスコミがそういう面を取材して報道することは、ほとんどありません。
報道するのは、それが大事件に発展したときだけです。

例えば、奈良の家族3人放火殺人事件は、私たちに大切な教訓を示していると思います。
この場合は、目指したのはスポーツ選手ではなく医者でした。
でも、「その道で親がわが子を子どものころから鍛える」という点において同じと言えます。
つまり、医者である父親が、長男を自分と同じ医者にしようとして、小さいときから勉強面で鍛えたのです。
高1の長男は弁護士に次のように話しています。
「幼稚園のときから父親の監視下で長時間勉強させられ、つらかった。みんなと同じように遊びたかった」

ところで、このような大事件に発展しないまでも、このケースと本質的に同じという例はたくさんあります。
私の身近にもあります。

あるお父さんは若い頃サッカーの選手でした。
本人が言うには、かなり上手でいいところまでいったのですが、けがのためにその上は断念したとのことでした。
それで、自分の息子に夢を託すことにしました。
ところが、一生懸命鍛えようとしても、なかなかうまくいきません。
というのも、その子は絵を描いたり何かを作ったりするのが大好きだったからです。
運動は、はなはだ苦手でした。
お父さんは、男のくせに絵ばっかり描いているのが許せなかったそうです。
男のくせに運動もろくにできないような、軟弱なところが許せなかったそうです。

ある日、その子が描いた絵が大きいコンクールで最高の賞を取りました。
でも、お父さんは息子がもらってきた立派な賞状をびりびりに破り捨ててしまいました。

このような日々が続き、年月が経つに連れて、その子の心はお父さんから離れていきました。
今、成人したその子は、滅多に家に寄りつかないそうです。

今から5年以上前のこと、とても優秀なある女の子がいました。
勉強も運動も音楽もよくできて、生活態度もまじめでリーダーシップもあります。
習い事もたくさんやっていて、放課後は毎日そのスケジュールで埋まっています。
親も先生も、その子をとても信頼していました。
クラスではミニ先生のような頼りがいのある存在でした。

4年生まで、その子は万事順調でした。
ところが、5年生になって、がらりと変わりました。
だんだん登校を渋るようになり、学校に来たとしても以前とは全く様子が違います。
目がうつろで、何もやる気がありません。
だんだんクラスに入ることができなくなり、保健室に一日いるようになりました。
やがて、それもできなくなり全く学校に来なくなってしまいました。

担任はとても心の細やかな、物事がよく分かっている先生でした。
それで、その子の話をじっくり聞き、お母さんの話もじっくり聞きました。
もちろん、「これは自分のせいではないか」という強い責任も感じていました。
その先生の勧めで、心療内科の先生にも見てもらいました。
担任の先生が聞いたことや心療内科の先生が聞いたことから、いろいろなことが分かってきました。

その子のお母さんは、小さいときからわが子に過剰な期待を寄せ、その分過剰な要求をしてきました。
特に将来何かの職業に就かせたい、という形での期待や要求ではありませんでした。
でも、とにかくいろいろな面で教育的にいいと思われることは全部やらせたいと思っていました。

勉強も運動も音楽も生活も、なんでもがんばらせて立派な人したかったのです。
勉強も親がよく見てやりましたし、塾にも行かせました。
ピアノも習わせて、家でもたくさん練習させました。
その他の習い事も全てそのようにがんばらせました。

そして、その子は、それら全てでとてもよくできました。
もともと能力的に高い潜在能力を持っていたのでしょう。
そして、「いや」とか「やめたい」などと言ったことがなかったのです。
性格もまじめで一生懸命で、手を抜かないタイプだったのです。

そして、自分ががんばることで親が喜ぶのを見るのがうれしかったのです。
自分で多少いやだなと思っても、それを口に出して言えないのです。
自分に負けるようでいやだし、親にすまないという気持ちもあるからです。
それで、そういう気持ちを全て押さえ込んでがんばってきたのです。
でも、その限界が、5年生になったときに一気に表れたのです。

突然がらりと変わったわが子を前に、親は何がなんだか訳が分からなかったようです。
それまで、全てにおいて模範的ないい子でしたし、こんなことになる理由について思い当たる節が全然なかったのです。
ここがとても大事なのですが、親の方には子どもに無理をさせているとか押しつけているという意識は全くなかったのです。

なぜなら、その子は「いや」とか「やめたい」などと言ったことがなかったからです。
もし、その子が「いや」とか「やめたい」と言うのを無理にやってきたというなら、親も自分たちが過剰な要求をしていたと気がついたはずです。
でも、その子はそんなことは一言も言わず、なんでも一生懸命にやって、なんでもとてもよくできていたのです。

こういう子が今けっこうたくさんいるのです。
ですから、親はよく気をつける必要があります。
無理に過剰な要求をしているつもりがなくても、結果的にそうなっていることもあるのです。

「いや」と言ったり、親に文句を言ったりしない子がいいとは限りません。
なんでも言うことをよく聞く子がいいとは限りません。
なんでもがんばってよくできるから安心とは限りません。
心も開放されているかどうか、ストレスを溜め込んでいないかどうか、親はよく気をつけている必要があります。

でも、私は、この子が5年生のときにこうなったことはよかったと思います。
もし、このとき出なかったら、もっと後になって出る可能性があるからです。
そして、そのときは、もっと大変になる可能性があるからです。

ここまで3つの例を見てきました。
奈良の家族3人放火殺人事件、絵が好きだった男の子の例、なんでもよくできた女の子の例の3つです。
この3つには、違う点もたくさんありますが共通している点が2つあります。
1つは、親の強い思いの押しつけという点です。
もう1つは、その当然の結果として、子どもの意思、特質、能力の無視という点です。

では、なぜ、多くの親が自分の強い思いを子どもに押しつけてしまうのでしょうか?
なぜ、子どもの意思、特質、能力を無視してまでそれをしてしまうのでしょうか?
それには、2つの理由が考えられます。

理由の1つ目は、自分の夢や願いを子どもに託す親がいるということです。
絵が好きだった男の子の父親は、まさにこれです。
自分は一流大学に行けなかったから、わが子は私立の中高一貫校に行かせてやがては一流大学に、という例がこのごろ多いようです。
自分は子どものころピアノを習いたくても習えなかったので、わが子には習わせたいというのもこれです。
こういうやり方は、子どもにとって大きな迷惑以外の何ものでもありません。
子どもの人生を通して親が自己実現しようというわけですから。
でも、これは、子どもの人生を通してというより、子どもの人生を奪ってと言った方が適切な言い方です。

理由の2つ目は、それがこの子のためだと親が思っているということです。
(本当は「自分の夢や願いを子どもに託す」という1つ目の理由なのに、親自身がこちらの理由だと思いこんでいる場合もあります)
この道を行けばうまくいく、こっちへ進めば一生安心だ、こういう気持ちからのものです。
子どもより大人である自分の方が世の中のことを知っている、どうすれば人生がうまくいくか知っている、だからわが子のために道をつくってやろうというわけです。
奈良の家族3人放火殺人事件の場合は、これに当てはまります。
近頃の私立小学校や中学校の受験ブームにも、これがあるようです。
こういう親の気持ちは昔からあるもので、今に始まったことではありません。
でも、昨今の勝ち組負け組などという話に影響されて、こういう親が増えつつあるのかも知れません。
つまり、なんとしてもわが子を勝ち組にしてやらなければというわけです。
もちろん、これらはもともと愛情から出たものかもしれません。

でも、実は、これも子どもの人生を奪うことなのです。
それなのに、親は子供を思う愛情からだと思いこんでいるので、よけいに始末が悪いのです。
子どもには、子どもの意思、特質、能力というものがあるのです。
でも、多くの場合それが無視されています。
親は、わが子にはこうしたいという意思がないようだから、親が決めた方がいいのだと思っているかも知れません。
親が示した道を特に嫌がらないから、子どもも納得しているのだと思っているかも知れません。
でも、これはとんでもない間違いです。

子どもは、親の強い思いを見せられると、なかなか「いや」と言えないものなのです。
親を愛していますし、親を喜ばせたいとも思っています。
親をがっかりさせたくないという気持ちは、子どもならみんな持っています。
ですから、「いや」と言わないからといって、だいじょうぶということにはならないのです。

子どもが自分から意思表示しないなら、うちに秘めている意思を引き出してやることが大事です。
まず、子どもが好きなこと、興味を持っていること、得意なことを見つけてやってください。
そして、それをさらに伸ばせるように手助けしてやってください。

例えば、昆虫が好きな子がいたら、そこを伸ばしてやるのです。
虫のいるところに連れて行って昆虫採集をさせてやる、飼育セットを用意してやる、昆虫標本の作り方を教えてやる、昆虫の図鑑や学習漫画を買ってやる、昆虫博物館に連れて行ってやる、昆虫のDVDを見せてやる、昆虫博士の伝記を読ませてやるなど、いろいろな方法があります。

もちろん、ただどんどん与えればいいというわけではありません。
それも、また別の形での押しつけです。
子どもの様子を見ながら、少しずつその世界を広げる手助けをするのです。

自分の得意を伸ばすといっても、子どもだけでは限界があります。
そこに、大人の手助けがあるのとないのとでは、大違いです。
大人の手助けがあれば、子どもはそのことがものすごく得意になります。
大人の手助けがないと、子どもはそのことがちょっと得意になるだけです。

このように、子どもの内に秘めている意思を引き出してやることこそ、親のやるべきことです。
出発点は子どもからです。
なぜなら、子どもの人生は子どものものだからです。
誰にも自分の人生を自分で決める生得の権利があるのです。
これを自由というのです。
自由こそ人間の持つ最高の権利です。
自由こそ人間の存在価値そのものです。
人間の一番の苦痛は自由を奪われることです。
人間は自由を奪う相手を恨みます。
そして、自由を奪われた経験は、苦い記憶として心の中にいつまでも残ります。

ずっと親の言う通りにやってきて、30歳くらいになって、ふと振り返ります。
あのときあれをやりたかったな、あっちに進みたかったな・・・
でも、できなかった。
それは、親がこうしろと言ったからだった。
それは、もちろん親の愛情によるものだった。
それは、分かっている。
でも・・・

そして、このようにずっと親の押しつけのもとで成長してくると、もう1つ深刻な問題を抱えることになります。
それは、自分の人生を自分で切り開くことができなくなるということです。
自分はいったい何をしたいのか分からない・・・
自分はどういう生き方をすればいいのか分からない・・・
これをしたいというものが特にない・・・ 
ただ漠然と毎日を送っている・・・

引きこもりやニートが増えている原因の1つが、この辺りにあるのではないでしょうか?
そこまでいかなくて普通に生活している人の中にも、こういう感じの人はいます。

そういえば、私のところに取材に来てくれたある雑誌の編集者が言っていました。
部下の編集者で、なかなか独り立ちできないのが2,3人いて困っている。
言われたことはてきぱきできるのだが、自分から企画を立てられない。
立てたとしてもありきたりで、本人にも絶対これをやりたいという意思が感じられない。
雑誌づくりの仕事はオリジナリティと情熱が命なので、とても困っている。
道のないところに自分で道をつくれる人材が欲しい。
すでにある道しか歩けないのでは、編集の仕事は無理。
すごく高い倍率の採用試験を通ってきたはずなのだが、採用方法を見直す必要があるようだ。

自分で人生の道を切り開けるのは、子どものころからそうしてきた人だけです。
子どものころからそういう経験をしてきた人だけに可能なのです。
もっとはっきり言えば、そうすることを許されてきた人です。
子どものころからそうすることを許されないまま大人になった人に、それができるはずがありません。

なぜなら、これも1つの能力なのですから。
というより、最も大切な能力と言っていいくらいです。
そして、能力は経験によってのみ身に付くのです。
子どものころから、ぜひ、この一番大事な経験をさせてやってください。
そして、最も大切な能力を身に付けさせてやってください。
これこそ勉強です。
これこそ親が子どもに残す最高の教育です。

どうか、子どもに自分の人生を生きる喜びを教えてやってください。
子どもの内なる意思を引き出してやってください。
大いなる熱中体験をさせてやってください。

子どもの人生は子どものものです。
親のものではありません。
子どもの自由を保障してやってください。
自由は人間の生得の権利なのですから。

子どもの自由を保障してやってください。
自由は人間の存在価値そのものなのですから。